【桜談義006-1】倉田浩道さん前編
令和2年2月撮影
左から、倉田浩道さん、坂野秀司
三重県の桜紳士、日本を代表する桜愛好家のおひとり倉田浩道(くらたひろみち)さん。北海道松前町の桜守、桜研究家の浅利政俊さんに師事されており、本業の通訳士という技術を生かして、イギリスの園芸職人ともつながっているという、国際的に活躍されている方です。近年は100年ぶりに発見された日本国内における桜の野生品種「クマノザクラ」の記録に力を注いでいらっしゃいます。
このような凄い方が茨城県の桜に興味を持ってくださっているということで、茨城県の桜は全国に通用する魅力を持っていると改めて実感しました。全国の桜愛好家、桜守、桜人との交流や情報共有が大切。そんな思いを強くした倉田さんとの歓談です。令和2年2月、水戸千波とう粋庵さんで、3時間桜づくし。
前編、後編に分けて掲載します。まずは前編です。
歌舞伎役者が大見得を切る、般若院のシダレザクラ
坂野秀司:
平成31年に龍ケ崎市中央図書館で開催した講演会・写真展に来ていただいたのが倉田さんとの出会いですね。「荒川堤の五色桜」を管理されている凄い方々もお連れいただいて、ただただ衝撃的な出会いでした。
倉田浩道:
最初、水戸桜川千本桜プロジェクトの総会にお邪魔して、次の日龍ケ崎市に行ったのですが、常磐百景のサイトで調べていたら、図書館の近くのお寺、般若院でしたっけ、あそこの桜もあるからそれも見ていこうということでした。あのシダレザクラの満開は見てみたいな~。
令和2年2月撮影 般若院のシダレザクラ(龍ケ崎市)県指定天然記念物
坂野秀司:
般若院は茨城県のシダレザクラでは一番古くて太いですね。
倉田浩道:
先まで冷たくしっとりしていました。カサカサじゃなかったんで、生きてるなという(笑)
坂野秀司:
般若院のシダレザクラは、本堂が風よけになっていたり、鉄の支柱が何本も建っていて、枝をワイヤーで固定しているので、ちょっとやそっとの風では折れないみたいですね。あの年代の桜であそこまで残っているというのは県内では珍しいですが、やはりどっちを取るかですよね。樹木医さんの治療も含めて、支柱やワイヤーで見栄えが悪くなってしまうけど枝折れを防いで守るか、それとも自然にまかせて折れていくのを見守るか。でも自然にまかせていたら、今はもうあの素晴らしい姿は見れなかったでしょうね。
倉田浩道:
歌舞伎役者が大見得を切っているような姿ですよね。お寺の住職さんも、あの姿を守りたいのでしょうね。
坂野秀司:
まさにそのような樹観ですね。巨樹老木の観点だと、般若院のシダレザクラが茨城県の横綱でなくてはいけないと思います。樹齢500年、間違いなく県内最古であり最大のシダレザクラですね。『茨城桜見立番付』(昭和58年・川上千尋)では横綱に選ばれていますが、私の制作した桜番付では歴史的な背景を踏まえてヤマザクラを横綱とする意図があったので、エドヒガン系である般若院のシダレザクラは大関としました。ご住職からはなんで横綱じゃないのかといわれたことがあります。その点は非常に申し訳ないと思っていますが、一般的な目線で捉えれば、般若院のシダレザクラはまぎれもない横綱ですね。
倉田浩道:
そういうのあるでしょうね(笑)なんでうちが小結なの?とか。人が来たら困るから逆に上げてほしくないところとか。取材と取り上げ方の難しさはあるでしょう。
坂野秀司:
昨年の春までで茨城県内580ヶ所を撮影しているのですが、取材を拒否されたのは1ヶ所だけです。そちらは桜を見せていただくことも叶いませんでした。平成3年の環境庁の巨樹データに記載されている個人のお宅の裏庭にあるヤマザクラだったのですが、今は全盛期を過ぎて枯れかけているそうで、ご主人がみすぼらしい姿を見てもらっては困ると。巨桜の衰退は決して恥ではありませんし、撮影はしないので一目だけでも見せてくださいとお願いしましたがダメでした。突然の訪問という失礼もあったと思いますが、桜を想うがゆえのご主人の気持ちも理解できたので、その時点で桜番付に掲載するなど言語道断という気がしまして、そこは諦めました。
平成時代が終わるまでに県内全ての巨桜を見つけなければならないという思いでやってきて、令和になってから『茨城一本桜番付 平成春場所』を完成させました。ところがその後に、桜川市のサクラサク里プロジェクトの渡邉さんから、とある神社の巨桜を教わりまして「うわ~出てきちゃった」と(笑)そうしていたらその後も他所でごろごろと知らない巨桜が出てきちゃいまして。
でも平成の横綱「偕楽園左近の桜」が台風による倒木で居なくなっちゃったものですから。桜番付に関しては、今後どうしていこうかなと思っています。掲載した桜はこの数年間で結構枝折れが進んでいるものもありまして、その衰退を記録していこうかなとも考えています。
写真 野生品種ならではの多様性が確認できるクマノザクラ
クマノザクラの魅力
坂野秀司:
倉田さん、クマノザクラの記録にかなり周られてますよね。それぞれの個体は違いがあったりするんですか?
倉田浩道:
そんなには周ってないですよ。樹木医さんの方がもっと周っていますので、まだ見ていない所を何ヵ所か教えてもらっています。個体によってかなり違いますよ。
坂野秀司:
違いが出るのはヤマザクラと一緒で、野生品種ならではですね。それぞれに個性があるけど、品種としてはクマノザクラというくくりがあるわけですね。
倉田浩道:
そうです、形態的には同じ特徴を備えています。こちらが日本櫻学会(※1)で報告した資料です。和歌山県側の古座川町という所と、三重県側の熊野市紀和町と、大きく分けると2ヶ所。実際に分布しているエリアはもっと広いのですが、さすがに林道で鍵を持っていないと入れない道などもありますので、全部は周れていません。樹木医さんとか林業試験場の方などから許可を得ていれば連れて行ってもらえるとは思うんですけど。素人の私らが行っても入っていけないところもあるので。基本的に私が行っているのは車で行ける所ばかりです。
(長尾のクマノザクラ写真を指して)これいいですよ、今では三重県と和歌山県の中でも横綱級です。樹形も花付きもかなりいい個体です。勝木俊雄先生(森林総合研究所・クマノザクラの発見者)が惚れ込んでいる一本です。
※1 日本櫻学会は、桜の育成と保護に関する経験や情報の交換・共有化そして交流の場として2006年3月に発足しました。サクラについて、科学的な視点からの情報を普及し、後世に伝えるための活動として、研究発表会を開催し、雑誌「櫻の科学」を発行しています。
平成31年撮影 長尾のクマノザクラ(熊野市)
坂野秀司:
なるほど、シンボルツリー的な一本ですね。クマノザクラはヤマザクラみたいに巨大にはならないのですか?
倉田浩道:
樹高20mぐらいまでいってるようなものもありますよ。ただ、あまり大きなものはまだ見つかっていないですね。
坂野秀司:
でもこうして生き残って分布していたと。すごいことですよね。
倉田浩道:
これなんかは、くびれたカスミザクラっぽい花なんですけど、こちらみたいに丸いものと違いますよね。ちょっとしだれているというか。「シダレ」が出てくる個体もあるんです。その内クマノシダレなんかが出るかもしれません(笑)
坂野秀司:
実生(※2)で増えるわけですから、突然変異で生まれるということですね。面白いでしょうね、今まさに現在進行形の記録ですものね。ヤマザクラでもシダレが出ている個体を目にすることがあります。
※2 実生(みしょう)草木が種から芽を出して生長すること。その発芽した植物。
倉田浩道:
そうですね、100年ぶりに新種の発見があったわけですからね。このアプローチだったら、他にもまだ出てくるんじゃないかといわれていますが、相当な努力は必要だと思います。「なんかあそこの桜は他のと違うよね~」ということから始まったわけですが、ただ、その一本だけがあってもダメなんですよね。クマノザクラは花の形は違ったりしていますが、基本的な特徴を備えているんです。花の時期はヤマザクラより早く咲くのが特徴ですが、園芸品種(※3)のソメイヨシノよりもちょっと早いぐらいなので、クマノザクラを実生で増やそうとする時に、ソメイヨシノが植わっている人里などの場合、花期が被ることで交雑(※4)が起きてしまうと心配されています。だからといってすぐにソメイヨシノを切るわけにもいかないので、衰退していったら次はクマノザクラを植えようということになっているんです。
※3 園芸品種(えんげいひんしゅ)交配、選抜などをして人為的に作った植物。 栽培品種。
※4 交雑(こうざつ)別の種、または別の品種の雌と雄とをかけあわせて雑種を作ること。交配。
坂野秀司:
いわゆる遺伝子汚染(※5)というやつですね。茨城県の桜川のヤマザクラでも叫ばれている問題ですね。
※5 遺伝子汚染(いでんしおせん)とは、野生の個体群の遺伝子構成が、人間活動の影響によって近縁個体群と交雑し、変化する現象を一種の環境破壊との含意を込め、批判的視点から呼ぶ呼称。
倉田浩道:
オオシマザクラとかが海岸沿いに植えられているのですが、それは人が持ち込んだものですから。それと混ざってしまった「クマノオオシマ」みたいなものがすでに生まれているんです。古座川に横浜から移住された樹木医さんがいるんですよ。その方は地場で樹木医の仕事をしているんですけど、クマノザクラだけではないのですが、そういった交雑をすごく心配されています。こちらが原木がある位置なんですが、小学生に看板を作ってもらったり、学校に行って教育したりとかもされているようです。
坂野秀司:
まさに茨城県の磯部桜川公園のヤマザクラと同じお話ですね。
『写真で巡るクマノザクラ 第二集 東紀州』(令和2年・寺澤秀治/勝木俊雄)
倉田浩道:
これが三重県版のクマノザクラの写真集です。
坂野秀司:
うわ凄い、ありがとうございます。先ほどのシンボルツリーも太くて素晴らしいですね。
倉田浩道:
要するに株立ちしているので、何度も折れながらどんどんひこばえ(※6)が出てきて成長しているというか。要はヤマザクラと似ていて、山の桜はだいたいそうなりますよね。
※6 蘖(ひこばえ)樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。
坂野秀司:
花期がヤマザクラと違うというのが面白いですよね。だから見つかったともいえるのでしょうけど。
倉田浩道:
山で発見されていますから、まだ人里には先ほどのような樹形の良いクマノザクラが無いので、写真集といっても、ただの山の桜じゃんと(笑)他の木の中で混じって咲いているような写真でしか構成できないんですよね。
坂野秀司:
我々は筑波山や桜川のヤマザクラを知っていますから、こういった状態の桜が美しいという感覚はわかっていますので、いいと思います。これこそが自然で増えたきた証(あかし)ですよね。
倉田浩道:
これぐらいなら、私にも写真集作れますかね?売るのが目的じゃなくて。
坂野秀司:
全然いけますよ、今はそういった写真集制作のサービスが豊富にありますし、倉田さんならたくさん素材をお持ちだから。何かに残さないともったいないですよね。こちらの資料に載っている倉田さんの写真はアップもあるし、樹形のわかる構図もあるし、一本一本個体差があることが花の写真などからわかるようになっていますし、資料としても、写真集としても優れていると思います。研究の発表資料はこうやって作っているんですね。
写真 講演用のスライドコピー
倉田浩道:
これを学会誌に載せてもらうように論文化もしました。受理されるかわからないですけど。
倉田浩道:
片道200キロあるんですよ、熊野町で。古座川町まで行くとさらに50キロくらい増えるので、県内とはいえ一番南の端の方なので。高速道路ができて行きやすくはなっているんですけどね。朝4時ぐらいに出かけて、日が出たら現地に着いているという。その気持ちわかるでしょう(笑)
坂野秀司:
やっぱり(笑)よくわかります。朝陽がもったいないですからね。しかし県内なのに片道200キロは大変ですね。
倉田浩道:
暗い時間帯は移動時間に決まっているだろうと、朝陽が来た瞬間に現場にいなくてどうするんだという話ですから(笑)照明を当てれば別ですけど、それは本来の姿と違うんでね。
坂野秀司:
一昨年(平成29年)、三重県で100年ぶりに新しい野生品種の桜が発見されたと。野生の桜は9品種(※7)しかないといわれてきたわけですが、クマノザクラが見つかったので大騒ぎというのがこの2年間ですね。
※7 国内で野生品種とされていたのはヤマザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザクラ、エドヒガン、チョウジザクラ、マメザクラ、タカネザクラ、ミヤマザクラの9種。(疑義のあるカンヒザクラを含めると10種)
倉田浩道:
明治になって西洋の科学がやってきて、品種を特定するという作業があって9品種とされたわけです。最後に見つかったのがオオシマザクラ(大島桜)ですから、そこから100年、誰も見つけられなかったものが今回見つかったわけです。地元ではヤマザクラが2回咲いているといわれていたそうです。花の色がピンク色なんですよね。
坂野秀司:
野生品種なので個体差があることから、今はみなさんが夢中で捜し歩いて記録しているという状況ですね。桜業界の最前線というわけですね。
倉田浩道:
DNA解析があったからとか、そんなんじゃなくて、あの発見は勝木先生が桜を好きだったから見つけられたんだと思います。早咲きの桜があるんだけど見てくれへん?って現地の人が言ったわけじゃないんですもの。勝木先生がなんで見に行かれたかというと、オオシマザクラって、伊豆大島とか、伊豆半島とか、関東域で多いじゃないですか。薪桜(まきざくら)とかいって燃料用に造られた歴史があって、盛んにそこら中に植えられたと。そのオオシマザクラの影響で色々な桜が伊豆半島にできていると、カワヅザクラ(河津桜)も含めて。じゃあ紀伊半島はどうなの?ということで熊野に目を付けたらしいです。で、現地に行って色々見たり話を聞いていると、2回咲く、早咲きの桜があるというのを聞いて、これはなんだろうと思って見ていたらということらしいです。
坂野秀司:
今でいうクマノザクラに対して、そこまでは誰も気が付かなかったんですかね?
倉田浩道:
地元の人たちは違う桜だとは思っていなかったんです。早咲きのヤマザクラだと思っていたみたいです。
坂野秀司:
なるほど、普通は100年もの間、日本で9品種といわれていたわけですから、先入観もありますし、新品種とは考えませんよね。
倉田浩道:
一般的にみても確かにヤマザクラの一種だよね、大まかに捉えたら。ということにはなると思うんですけど、学術的な品種分類でいったら違うということになるので。
坂野秀司:
こうしてたくさん撮られた写真を見ると、明らかに紅色が強くて、なおかつ咲く時期も違うという、今となってはクマノザクラはちょっと早く咲いて花色が濃いんだと、そういう印象が私にすらあります。すごい発見ですよね。
倉田浩道:
たくさんの桜を見てきた人だから、なんかこれはあるんじゃないかっていう探求心じゃないですか。
坂野秀司:
私は面識はありませんが、勝木先生は桜川にもいらっしゃっているようで、結構調査をされているようです。ヤマザクラとエドヒガンの交雑種とか。
倉田浩道:
野生種で変異が多いのがお好きなんですよね。
大正時代の全国大桜番付について
坂野秀司:
こちらが『全國大櫻番附』 (浅田澱橋 東京朝日新聞・大正8年)と、それを解説した論文『風致的に観たる日本桜(一)』(丹羽鼎三・昭和11年)です。
論文の方は番付された100本の解説なんですが、1本目が山高神代桜、次が根尾谷淡墨桜、長野の神代桜、会津石部桜というそうそうたる名桜が番付されていることがわかります。その中でなんと100本中8本が茨城県の桜なんです。しかも磯部桜川の同じ場所、あの名勝地から2本が選ばれているんです。
倉田浩道:
・・・凄いねえ。
坂野秀司:
はい、特に桜川の凄さを感じますよね。ただこの番付を作った方が東日本寄りの方だったようで、あまり西日本の桜が載っていないことが残念だというようなことが、この論文に書かれています。この論文は大正時代の大桜番付を引用した昭和10年のものですが、大桜番付を理解するのに役立ちます。
倉田浩道:
すごい資料ですねこれは。
坂野秀司:
大正8年に桜番付を出している方がいらっしゃったということですね。桜の花番付自体は江戸時代からあったようですけどね。
倉田浩道:
いつの時代もいるんですよね(笑)
桜川市桜型録(カタログ)について
坂野秀司:
こちらの資料なんですが、桜川市の桜カタログというのを作ってみまして、全部で4ページなんですが、来週桜川市で講演をやらせていただくので、その時に配ろうと思って作った資料です。明日桜川市の渡邉さんが水戸桜川千本桜プロジェクトの例会に来てくださるので配布します。
倉田浩道:
これは「かばさん」というのですか?筑波山と近いのですか?
坂野秀司:
そうです、筑波山があってその先に連なる山々の中で最も大きい山が加波山です。こちらも結構天然のヤマザクラが豊富ですね。
倉田浩道:
常磐線で来る時と、新幹線で北に向かう時に、必ず見ますよ筑波山。今日は見えるかなと思って気になる山ですね。今日もカメラを構えながら見て来ました。街中に入ると住宅で見えなくなるので、畑になった時に逃さないようにしています。
坂野秀司:
茨城県の山は1000メートル級がなくて、みんな低山なんですよね。そうすると、山の近くに平野が広がっていてすぐ傍に里の暮らしがあるわけです。田んぼで農作業をされている地元の方々なんかは、そのヤマザクラの風景が当たり前のこととして暮らしているわけですよね。そういった意味では吉野山と真逆というか、対比できますね。その身近さがいいなと思うところですね。どうしても吉野は植樹して増えた場所ですから、こちら「筑波桜川」は自然のヤマザクラというのがポイントですね。
倉田浩道:
吉野はある意味で自然破壊ですからね、あれだけヤマザクラばっかり咲くわけないだろうと(笑)
坂野秀司:
目線を変えればそう捉えることもできますね(笑)とはいえ吉野は日本最古の桜名所ですからね、あの威厳は別格ですね。
奈良の八重桜の産地は三重県かもしれない
坂野秀司:
こちらは来週日立市でやる講演会のスライドデータをプリントしたものです。ここに解説が入らないと完成しませんが、倉田さんなら見たら伝わると思いまして。
倉田浩道:
一千三百年の桜史。凄いな~。三重県もありますよ1300年ぐらいなら(笑)奈良のヤエザクラ(八重桜)の産地は三重県なんですから。
坂野秀司:
え?あの「奈良の八重桜」は三重県が発祥地なんですか?そして奈良に渡ったと?
写真 花垣の八重桜縁起(花垣神社)
倉田浩道:
伊賀上野という忍者の町があるんですが、予野という所に花垣神社という神社があるんです。花垣神社って、垣根で花を守るという意味で、それは天皇が勅令を出して守りなさいというところからきているんです。宿直と書いて「とのい」(※8)というんですが。この伊賀に非常に珍しい桜があるので、その桜を誰も悪戯しないように、咲いている間は宿直を立たせて、垣根を作って桜を守りなさいと御触れを出したわけです。その場所が花垣神社といわれていて、当時は三重も奈良も区別がないような状態ですから、でも地元の人の伝承では、その珍しい桜を天皇に献上しようと思って、地元の人たちが何十人と隊列を組んで奈良の都まで行ったんです。だけど、そんな一介の村人が来て天皇に差し上げるなんて差し出がましいということで、結局はうまくいかなくて、どこかに移植された状態になってしまったわけです。それを聖武天皇が見つけられて、良い桜があると宮中に移植しました。で、奈良の八重桜といわれるようになったと、地元の人はいっています。日本史最初のヤエザクラは伊賀、三重県なんです(笑)
※8 宿直(とのい)とは、律令法において宮中・官司あるいは貴人の警備を行うこと。
坂野秀司:
おお~、いいですね!口伝も大切ですからね、面白い!素晴らしいお話です。
花垣の八重桜(伊賀市・花垣神社)県指定天然記念物
倉田浩道:
要するに人が作ったものではなくて、野生の突然変異のヤエザクラですよね。
坂野秀司:
最初はそうだったんでしょうね。花びらが多いこの桜はなんだ?と。
倉田浩道:
ただ、勝木先生が解析すると、現在花垣神社にあるヤエザクラと奈良のヤエザクラは系統がちょっと違うんじゃないのといわれています。代替わりを何代かしているので。
坂野秀司:
なるほど。それはそうでしょうね。でも奈良のヤエザクラの起源が・・・
三重県は伊勢神宮があるぐらいですから、歴史的にやっぱりすごいエリアですね。
横輪桜(伊勢市)雄しべが花びら化した濃いピンク色と大きい花びらが特徴の桜
倉田浩道:
伊勢市の平家の落人村みたいなところに、ヨコワザクラ(横輪桜)(※9)という桜があって、大輪の大きな花なんですけど、年代を経ていくとだんだん八重化していくんです。そういった変わった桜もあったりしますね。江戸時代の図譜とかに「伊勢桜」というのが載っているんです。それはひょっとするとその横輪桜ではないかなと思っているんですけれど、どうも見つかったとされている年代と、図譜ができた年代が合わないんで。強引には結び付けられないなという感じです。
※9 ヨコワザクラ(横輪桜)三重県伊勢市横輪町の弘化山桂林寺に江戸時代よりあった桜
藤堂家と桜の関わり
倉田浩道:
今密かに情報を集めていることがありまして、それは藤堂高虎(とうどうたかとら)と桜の関わりという(笑)いくつか話があるんです。藤堂高虎ってご存知ですか?
坂野秀司:
戦国武将ですね、名前は聞いたことがあります。
倉田浩道:
7回主君を変えたという、変節の武将といわれていて、1人の殿様に仕えたわけじゃなくて、どんどん主君を変えたことで有名なんです。でも高虎の考えは変わっていないんです。生き残りたい、自分の正義のために命をかけたいと思っているんで、それに値しない主君がいたりすれば変わるし、そんな主君は滅びてしまったり。豊臣秀吉の弟である秀長に仕えていたにも関わらず、関ヶ原は東軍(徳川家康側)についたんです。
坂野秀司:
その主君を選べること自体凄いことですよね。
倉田浩道:
腕に自信があるというね。秀吉が家康を京都に招いた時に、家康が安心して泊まれるようにと居城を造らせるんですが、その時に高虎は最初の図面通りに造らないんです。そのままだと抜けがあって防御上弱いところがあったので、高虎の考えで強固なものを造るために設計を見直しましたと家康に言って、それが問題であればお切りくださいと。それで家康の信頼を得たという話ですね。(秀吉による)朝鮮出兵とかも、こんなくだらないことやっても恩賞も貰えずに敗れて帰ってきたりしていて、こんなんじゃいつまで経っても平和にならないと、平和を求める意味で、豊臣ではなくて徳川家康の采配に賭けたのはそういった背景もあるのではと思います。
坂野秀司:
すごく人を見る目、先を読む目があるんですね。で、その高虎と桜になんの関係があるのですか?
倉田浩道:
なんだと思いますか?
坂野秀司:
いや、全然想像つきません(笑)
倉田浩道:
ヒントの一つは、藤堂家の下屋敷は(江戸の)染井村にあったんです。
坂野秀司:
え~~?
倉田浩道:
え~でしょう(笑)下屋敷ね。で、元々の藤堂家の所領は上野だったんです。上野のお山が藤堂家の土地だったんです。家康が亡くなったことでその土地を上野寛永寺に明け渡したんです。で、上野という地名は「伊賀上野」からきているんじゃないかという説があるんです。
坂野秀司:
面白いです。いきなり上野とつかないですものね。
倉田浩道:
それは確定説ではないんですけど、そういう人もいるという説です。面白いでしょう。
坂野秀司:
染井村の話はどうなっていくのですか?
倉田浩道:
染井村の方も調べたんですよ。駒込に郷土資料館があるんですね。そこに学芸員の方がいて、染井村の植木屋の歴史を調べていると。その方が色々な出版物を出していて、要するにソメイヨシノ(染井吉野)は、どうやって生まれたのかなどを調べている人がいっぱいいるわけです。で、その関わりで「染井村の植木職人って、ひょっとしたら伊賀上野から来ているんじゃないですか?」って質問したんです。
坂野秀司:
え~!それで?
倉田浩道:
「いや、その可能性はない」と言われました(笑)武蔵国の歴史を紐解くと、そっちの方から来ているようで。でも植木職人って、堂々と殿様の家に入れるじゃないですか。つまり植木職人と言いながら、密偵、偵察部隊だったり、そういう要するに忍者が最もやりそうな仕事なんですよね。仮の姿は植木職人、ひとたび黒づくめの衣装に変えたら闇の中を千里も走るみたいな(笑)
坂野秀司:
(笑)いや~面白い話を持ってますね。なるほど、忍者と植木職人は紐づきますね確かに。すごくありそうな話ですね。染井村があった今の染井霊園というのが、水戸徳川家の墓地なんですよね。なのでちょっと身近な縁も感じます。
倉田浩道:
六義園は駒込駅の近くでしたっけ?六義園のすぐ外側が藤堂家の下屋敷だったんです。だからそこで植木職人をやりながら活躍していたと言ったら面白いでしょう?(笑)「んなばかな」ですけどね。
坂野秀司:
(笑)ソメイヨシノに関わっていた可能性が伊賀上野の忍者である植木職人にあると。なんて面白い説でしょうか。
倉田浩道:
お庭番ときたら可能性はあるかなと。西郷どんでもやってましたからね(笑)
坂野秀司:
西郷どんでも、お庭番というのは建前で、実際は片腕として動く役だったわけですからね。
倉田浩道:
だって庭を愛でるわけでしょう?「おいあの木枯れてるわ、どないしたんや!」と速庭番が呼ばれますよね。「どこから持ってきたんだあの木は!金に糸目はつけん、すぐに植え替えろ!ないとは言わせんぞ、松平の所にいったらあったやないかい!」と(笑)結構そういう意地を張っていたというか、あるでしょう(笑)
坂野秀司:
それはあるでしょうね(笑)
倉田浩道:
「おらが故郷にこんな変わったものがあるぞ」なんていってね、それで桜も結構変わったものが集まったんでしょうし。
坂野秀司:
その見栄で競ったがゆえに、今のような見事な園芸品種が生まれてきたんでしょうからね。
藤堂家が上野にいたという証に、上野動物園の横に、藤堂家のお墓(※10)が動物園の中から見えるところにあるそうです。まだ自分は見に行ったことはないですが。ただ、高虎のお墓があるかどうかは確認できていません。
※10 藤堂家墓所は上野動物園内の動物慰霊碑の奥から見ることができる(入ることはできません)
写真 不忍池から見た寛永寺方面の上野公園
坂野秀司:
それは見に行かないとなりませんね。桜番付の裏面にも書いたんですけど、上野の寛永寺がある西側に不忍池(しのばずのいけ)があって、その西側が向ヶ岡(むかいがおか)というんですね。今の東京大学ですが、そこは水戸藩の中屋敷駒込邸があった場所なんです。で、その水戸藩の中屋敷から不忍池越しに向こうのお山、つまり上野の山の、ヤマザクラを愛でてたらしいです。藤堂家のお話は、我々にとって縁がありますね。水戸桜川千本桜プロジェクトの稲葉先生とか、喜んでいただけそうだなあと(笑)
倉田浩道:
そうなんです、上野って聞くと、三重県にゆかりがある地だと私は思っているんです。下屋敷が染井にあった。ひょっとしたら伊賀の忍者が桜の接ぎ木をして、上野の桜も生み出したかもしれないと。忍法桜品種生まれの術みたいな(笑)
坂野秀司:
(笑)三重県、面白いです。そのソメイヨシノの学術名を付けたのが水戸藩出身の松村任三(まつむらじんぞう)ですからね、やはり縁を感じますね(笑)
倉田浩道:
でも高虎の話がまだいくつかあるんです。大阪の造幣局。あそこの前の地はなんだか知っていますか?
坂野秀司:
「桜の通り抜け」で有名な名所ですね。いやいや、わかりません。
倉田浩道:
豊臣時代の藤堂家の上屋敷があったんです。
坂野秀司:
いや~、関わっていますね、桜名所に(笑)
倉田浩道:
であれも反対側に桜が植わっていて、こっちにも植えようとなって、明治になって残っている桜があったので、造幣局が桜を植えだしたんです。なので藤堂家の跡が造幣局なんです。
坂野秀司:
それは藤堂家を調べたくなりますね。
倉田浩道:
江戸時代の地図を見て、本当に藤堂家の上屋敷がここにあったのかと重ね合わせたら、ほぼ一致したんですよ。
坂野秀司:
いや~面白いですね。
倉田浩道:
もうひとつだけ話があるんですよね、これは直接桜に関係しない話ですが。日露戦争で、日本海海戦でなんとか勝って、戦争も一応勝ち状態で終わったから。
坂野秀司:
ロシアのバルチック艦隊。勝ち逃げらしいですよね、日露戦争は。
倉田浩道:
連合艦隊を率いていたのが東郷さん(東郷平八郎)じゃないですか。勝ったお礼でお伊勢参りをしようとしたのですが、そのまま伊勢に行ったわけじゃなくて、なんと津に来たんですよ。艦隊を引き連れて。でも津ってそういう大きな船が停まれる港はないんです。遠浅で砂浜なので。だから小さい船に乗って、わざわざ津の港に入ってきたんです。で、偕楽公園という公園があるんですよ、漢字も同じで本家本元で言うと失礼ですが(笑)そこは殿様の狩り場だったようで、高虎のゆかりの地だから、一言お礼をしたいと。で、なんで高虎かっていうと、朝鮮出兵の撤退の時にしんがりを勤めたんですよね高虎が。
坂野秀司:
撤退時の一番後ろというのは、一番死ぬ確率が高い場所であり、信頼も必要で、なかなか務められませんよね。
倉田浩道:
そう、豊臣家にも信頼されていた家臣だった高虎は、三重県一帯、熊野も含めてなんですが、そこの水軍を抑えてたんです。なので水軍の戦い方を知っている素晴らしい武将だという認識が東郷さんにあったんだと思います。だからその高虎にあやかって自分は勝てたと。高虎さんありがとうという。東郷さんが戦勝報告に訪れたという記念碑があったんですが、現在は場所を移されていて、香良洲町の海軍の航空基地の跡地に記念館があるんですけど、そこに碇(いかり)が飾ってあります。日本海海戦の戦勝記念として。
坂野秀司:
高虎はもはや神ですね。本当のヒーローであり神であり。日露戦争に勝った理由にもなってしまうぐらいの。豊臣家にも徳川家にも大事にされて、凄い人ですね。
倉田浩道:
小説などでは「自分は体に100の傷を負うまで生き続ける」と言ってたなんて話もあって、高虎が亡くなった時に、身拭いをした人たちがびっくりしたと、体中傷まみれ。一番槍で突っ込んでいったから。大阪夏の陣とかで徳川方が劣勢になった時でも、藤堂家の家臣が全面的に前に押し出て、ものすごい戦死者を出している。そのことを家康はものすごくかっていて、あいつは我が身を捨てて俺を守ってくれたと。もし徳川家に何かあったら、まずは高虎を頼れ、あいつにしんがりを勤めさせろと家康は言い残していたらしいです。豊臣家に仕えていた外様ですよ。普通は遠くに追いやられて、石高も減らされますよね。ぜひ大河ドラマに(笑)
坂野秀司:
いや~全然大河ドラマになりますね。ちょっと桜も絡めてもらって(笑)
倉田浩道:
若い頃はぼろぼろで、腕は立つけど教養は無いので、腕力に任せてやっていたんだけど、嫌になって飛び出しちゃって、一文無しで三河の方まで路頭に迷って歩いていたと。お腹が減って、餅屋にあった餅が目に入ったら、それを無我夢中で全部食べてしまったと。そしたらその餅屋の主人は怒らずに、こんなに美味そうに食ってくれたのはお前がはじめてだと、出世払いでいいから許してやるといわれて。本人はお金が無いのでお金まで借りちゃって、その場は借りを作って帰ったんだけど。後に城持ち大名になって参勤交代で江戸に向かう途中に、その餅屋に寄って、家臣に餅をご馳走したという逸話があって、高虎の馬印(旗)は白い餅が描かれていて、これは白い餅と城持ち大名にかけているわけです。
坂野秀司:
そのエピソードだけで何話かいけますね。(笑)
倉田浩道:
身長190センチぐらいだったそうです。長槍を持って、ぶんぶん振り回すから、刀を出した瞬間に首が飛んでますよ。
坂野秀司:
隆慶一郎の前田慶次ですね(笑)そんなすごい武将がいたと。恐るべし三重県。やっぱりすごいところですね。
倉田浩道:
いや、生まれは滋賀の人です(笑)大名になったのは津藩だし、伊賀上野にもいましたけどね。それで桜と関係が出てくるのは、藤堂家の家臣に藤堂采女(うねめ)という人がいるんです。その人がさっきの花垣神社が荒廃しているのを見て、普請してきちんと建て直さなければだめだと言って、色々手を尽くしているんです。そこでも藤堂家と花垣神社がつながっているなと思うんです。その采女という人は、家臣同士が喧嘩していたのを諌めるのに、戦いで拾った命を無駄にするなと、そんなことなら俺が腹を切ると、凄いことをいって喧嘩を治めたような話もあります。
坂野秀司:
そこでまた花垣神社が出てきますか。藤堂家と桜のつながりなどは今も調べているんですか?
倉田浩道:
継続してネタがないので、アンテナを張っていて何かの時に引っかかったら深く調べて集積していく感じです。本当は古文書が読めればね、関係がありそうなところを当たっていけばもっと出てくると思うんだけどね。パズルをくっつけるところだけ拾ってくることができるんで。ただ、今はスタンスを変えて、古事記と万葉集を遡ろうとしています。万葉集では桜に関係する歌が何句あって、それがどこで詠まれたかとかね。
坂野秀司:
どこで詠まれたかまでわかるものですか?
倉田浩道:
はっきりわかるものもあるし、わからないのもあります。古今和歌集ぐらいになると割とわかるんですけどね。令和の話も、梅じゃなくて桜だったらいいんですけどね(笑)
坂野秀司:
やっぱりそう思いますよね、桜愛好家としてあれはちょっと残念ですね(笑)
倉田浩道:
あの当時は梅が絶大でしたからね。その当時の最新技術というかね、中国のものは正しい、中国のものは偉大だというような時代ですからね。
京都御所左近の桜
坂野秀司:
京都御所の左近の桜ですが、平安時代に梅からヤマザクラにしましたよね。よく梅から脱却したなと思います。
倉田浩道:
ひとつの説がね、都は何度も遷都を繰り返したでしょう。遷都をすると建物を造り直すじゃないですか。そのために木材が大量に必要となって、極力近くから持ってくるわけですが、周りの山が全部丸坊主になるわけです。そうなると、その山はヤマザクラのワンダーランドですよね。
坂野秀司:
樹高のある針葉樹が無くなると、ヤマザクラが成長しやすくなりますからね。
倉田浩道:
100年単位で色々な木が生えてくる中で、最初に桜が伸びて。これは今の桜川市のヤマザクラの状態ですよ。それを宮廷の人々がみて、枯れ木の山になんで花が咲くんだみたいなことですよね。神の成せる業だと。それで、梅もいいけど桜の花もいいよねということが徐々に定着したのではないかと。左近の桜になった時点で日本人の自我が生まれたんだと思いますよ。真似ではないオリジナルです。
坂野秀司:
はい、いわゆる「国風文化の発展」という社会の授業で習う、まさにそのことが起きたわけですよね。日本人の誇りが芽吹いたというか。それでよく桜を象徴的に据えたなと思います。
倉田浩道:
精神的独立ですよね。梅もいいけど桜もあるぞと。そのまま中国からの輸入に頼っていたら、自分たちは一生隷属しないといけないという危機感があったんでしょうね。逆に絶たれたら終わりだっていうのがあるから。なんとか自分でやらないといけないと。そこに桜も絡んでいるような気がします。万葉集の話などを詠んでいると面白いですよ。令和の歌の前後とか、やっぱり太宰府に行った人たちは、なんで俺がって「何期か勤めたら都に帰れるよな俺も」って思っていて。でも太宰府にいてもこんな雅(みやび)なことはするんだぞと、色々やりたかったし、現にやっていたんだと思うんです。その時の歌で梅が咲いたか、じゃあ桜も近いなとかって詠んでいるものもありますよね。最初はそういう歌は漢文で書いていましたからね。漢字を音だけ当てて詠むというのも面白いですね。
坂野秀司:
色々な本が出ていますけど、わかりやすく訳されていないと、自分なんかは意味がわからないんですよね。その訳が正しいかどうかもわかりませんし。
倉田浩道:
いいんですよ。残っている言葉はそのままだから、1300年とか経っているものなので。漢文をひらがなに直したことで違いが生まれるかもしれないけど、それを読み手がどう思うかですよね。学者だとそれは違うというかもしれませんが、読んでいてもこれは結構わかるなという歌がありますよね。短歌も結構いいものだなって思っています。
北海道松前の桜とイギリス
坂野秀司:
最近松前の桜(※11)は行ってるんですか?
※11 松前の桜は、江戸時代に本州から渡ってきた人が、ふるさとを懐かしんで植えたのがきっかけ。種類の多いことで知られ、松前生まれの約100種を含む250種1万本の桜を見ることができます。その約8割は八重咲で、春には、色・形とりどりの桜がリレー咲を繰り広げ、約1カ月間に渡ってお花見を楽しむことができます。松前公園は「日本さくら名所100選」に選ばれ、日本さくらの会から「さくらの里」の称号が与えられています。(松前町HPより)
倉田浩道:
松前は毎年一度は行きます。5月ぐらいですね。
坂野秀司:
2015年にはイギリスにも行かれてましたよね?(笑)
倉田浩道:
2回行きました(笑)秋にも行ったからね。
坂野秀司:
あの資料を見て気になったのですが、松前からイギリスに贈られた桜の穂木の、58品種中56品種も接ぎ木(※12)の活着に成功しているじゃないですか。あれはものすごい成功率だなと思ったのですが、イギリスの植木職人の技術はすごいですよね。実際どんなものなのでしょうか?
※12 接ぎ木(つぎき)とは、2個以上の植物体を、人為的に作った切断面で接着して、1つの個体とすること。上部にする植物体を穂木、下部にする植物体を台木という。
倉田浩道:
腕のたつ職人がいるんですよ。私らは桜のことしか考えてないですけど、あそこの職人さんたちは世界中の植物を集めてきてやっているので、桜でもなんでもやります。これをこうした方がいいんじゃないかとか、温度や湿度管理なども徹底的にロジカルにやれるんだと思います。園芸の達者な人を英語で「グリーンハンド」というんですね、いわゆるゴットハンドでしょうね。その時浅利先生(※13)は近くの郵便局に行って、そのまま郵便でポーンと送ったんです(笑)
※13 浅利政俊(89) 松前松城小学校の教諭として勤務していた1957年、町からの依頼で当時300本ほどしかなかった松前公園のサクラの植栽、品種改良に取り組み、現在では250種1万本が咲き誇る桜の園を作り上げた。1993年にはイギリスウィンザー王立公園の依頼で松前品種を含む58種類のサクラの苗木を贈り、春になると同国の植物園や公立大学などできれいな花を咲かせている。
坂野秀司:
(笑)普通なんか脱脂綿とかで湿らせてとかいうじゃないですか?ただ郵便で送っただけなんですか?1品種あたり何本送ったのかとかもすごく気になってました。
倉田浩道:
それぐらいはやったと思いますよ、詳しくは聞いてないですけど。1品種あたり3本です。
坂野秀司:
3本ですか。それで58品種中56品種成功。まさに神の手ですね。
倉田浩道:
イギリスの方が園芸の技術は上かもしれないですね。
坂野秀司:
そういうことですよね。松前の桜はどんな点が一番面白いですか?
倉田浩道:
多品種が同時に咲くところですね。
坂野秀司:
普通であれば時期が違ってしまうものが、松前では一斉に咲くと。
倉田浩道:
松前の品種を作った時代って1960年とかなので、冷蔵庫ぐらいはあるけど、いわゆる簡単に花粉とかを保存できるような施設があまりないから、花期が重なってないと、人工的な受粉ができないんですよね。そんな中で、幸いにも色々な品種が同時期に咲くので、それで新しい品種を生み出していったんですね。あとは実生の種を拾ってきて、苗木を育てて、面白い花が咲いたものを選別して残すということです。小学校の子供たちも動員して行ったらしいです。
坂野秀司:
面白いですね。だから松前と付く桜はみんな華やかで見応えがあるんですね。で、それに注目したのが、イギリスの?
倉田浩道:
そのきっかけは、松前で生まれた品種が日本花の会の桜品種マニュアル(※14)に掲載されていて。
※14 1983年発行の『日本の桜の種・品種マニュアル』(日本花の会)
坂野秀司:
あ、そうでしたね、そのマニュアルを見たイギリスの植木職人(※15)から問い合わせが来て、浅利先生が手紙をもらっていたと。
※15 英国園芸協会のジョン・ボンド氏(女王からの功労勲章受章者)
倉田浩道:
そうです。それで浅利先生は男気で、こんなリクエストが園芸大国のイギリス王立園芸協会から来ているんだから、自分の持っているありったけのものを全部タダで差し上げようと。考えられたようです。
坂野秀司:
素晴らしいお話です。倉田さんが松前とイギリスをつなぐ役となったのはどんなきっかけだったのですか?
倉田浩道:
浅利先生がイギリスに穂木を送ったのが30年近く前のことです。今現在はその時に活着した接ぎ木で増殖したものがかなり大きな木になっています。で、結局その桜に名前は付いているんですけど、じゃあこの桜は何と何を掛け合わせて、どう作ったの?ということがわからないから、その品種育成過程の情報をくださいという手紙を浅利先生が貰っていたんです。
坂野秀司:
で、その手紙を頂いていたんですけど?
倉田浩道:
返事をしようとしていたんですが、うまくいってなくて、手紙の下段にクリス・サンダースさん(※16)のメールアドレスが載っていたんです。で、浅利先生からは何も言われてなかったんですが「松前に行って、あなたの手紙のコピーを見ました」とメールを送ったら、そこからクリス・サンダースさんと交流が始まったんです。でも未だに品種情報は送れていないんです。浅利先生からは色々お聞きしたんだけど、これが正式版だといえるものがまだできてないので、それを早く浅利先生が元気なうちに完成させなければという思いですね。
※16 英国園芸界で桜についての第一人者(女王からの功労勲章受章者)
坂野秀司:
クリス・サンダースさんの年齢は?
倉田浩道:
浅利先生より1世代若いですね。でも70代かな。
坂野秀司:
で、クリス・サンダースさんが託した方がいらっしゃいますよね?
倉田浩道:
クリス・レーンさんですね、その方も同じ年代です。
坂野秀司:
となると年齢が上がってますね。
倉田浩道:
その後を継ぐ人がいないので心配ですね。大学の敷地に品種を集めているところがあって、その苗木が行っているので、大学の構内で増殖されればと思っているんですけどね。さすがにクリス・レーンさんの子供たちは桜に興味がないんで(笑)そこで世代断絶が起きています。
坂野秀司:
世代断絶ですか、どこの世界にもありがちな話ですね(笑)
倉田浩道:
桜では食べていけませんから。桜の新品種を開発したら儲かるという話ではないですからね。桜って、そうじゃないからいいんですけどね(笑)お金のためにやっているわけではないですよと。
2010年~2012年、王立園芸協会がクリス・レーン氏の農場を調査し、松前の桜19品種が、調査された233種類の桜の中から選抜され、AGM(優れた品種の庭木を推奨するための賞)を受賞。
参考・引用資料
『桜による松前と英国のつながり』(2014年11月・倉田浩道)
『ご報告:英国での松前桜について』(2015年7月・倉田浩道)
『浅利政俊氏育成の新品種桜の英国への展開について』(2017年10月・倉田浩道)
『クマノザクラ見聞録』(2019年10月・倉田浩道)
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