【桜談義006-2】倉田浩道さん後編
令和2年2月撮影
左から、倉田浩道さん、坂野秀司
令和2年2月、三重県の桜紳士、倉田浩道(くらたひろみち)さんとの対談の後編です。議論は遺伝子汚染から戦争と桜に発展しました。水戸千波とう粋庵の上田オーナーも加わっての桜談義はどこまで過熱するのか?(前編はこちら)
桜の遺伝子汚染について
坂野秀司:
クマノザクラの遺伝子汚染(※1)について心配されているというお話がありましたけど、先日、茨城県の桜川市でサクラサク里プロジェクトの渡邉さんの講演を聞いてきたんですが、1時間半のお話の中で一番印象に残ったことが「桜川の天然記念物を含む野生品種のヤマザクラを、衰退と遺伝子汚染(遺伝子交雑)から守らなければならない」ということでした。磯部桜川公園のヤマザクラは古木が多くなってきていて。当然、国指定天然記念物11品種(※2)については接ぎ木(※3)で生かしているものはあるでしょうけど、国指定名勝地である現地のヤマザクラを守らなければならないと。その中でも遺伝子汚染というキーワードがとても気になりました。公園内に植えられているソメイヨシノやオオシマザクラなどと交雑してしまうわけですね。
※1 遺伝子汚染(いでんしおせん)とは、野生の個体群の遺伝子構成が、人間活動の影響によって近縁個体群と交雑し、変化する現象を一種の環境破壊との含意を込め、批判的視点から呼ぶ呼称。
※2 国指定天然記念物11品種、桜川匂、樺匂、初重桜、初見桜、大和桜、源氏桜、白雲桜、薄毛桜、青桜、青毛桜、梅鉢桜
※3 接ぎ木(つぎき)とは、2個以上の植物体を、人為的に作った切断面で接着して、1つの個体とすること。上部にする植物体を穂木、下部にする植物体を台木という。
倉田浩道:
何百年という歴史があって数少ない貴重な品種がある場所に、まったく関係のない別の園芸品種を植えてしまうという事例は全国的に枚挙にいとまがありません。何処に何を植えるかは地権者、地元が決める事なので、私たちがそれを言ってもなにを偉そうな事をと言われるかも知れません。また、ヤエザクラ(八重桜)などには繁殖能力を失ったものも多いですから交雑の危険性が少ない場合もあるでしょうね。地元の方々の気持ちを考えると簡単には否定できない難しい問題です。
坂野秀司:
これは仕方ないことなんですよね。こういう遺伝子汚染というか、品種の断絶を考えるようになったのってごく最近で、過去にはあまりなかったことだと思うんですよね。 地域固有種や、そこに植えられて守られてきた品種を受け継いでいくという歴史の継承も断絶していることもありますが。
倉田浩道:
そうですね、そのように考えるようになったのはごく最近で、これまではほとんどないですね。
坂野秀司:
見栄え優先というか。いつの時代も、珍しくて華やかな品種は誰だって欲しくなりますよね。今だからこそDNA鑑定ができるので、遺伝子の交雑がわかってきて、これは大事にしなければならないのではとなってきたわけでして。
倉田浩道:
綺麗だったらいいじゃん、早く咲くからいいじゃんって、メディアもその感覚で報道していたら、それこそ遺伝子交雑なんて防げないと思いますね。野生品種、園芸品種(※5)に関わらず、いいと思った地域固有の桜が無くなってしまうよってことですよね。Facebookでリンクを載せた寒桜系の論文記事『早咲きのサクラ品種とカンヒザクラ地域集団の遺伝的関係』(※6)あれを読むと交雑の事が詳しく書いてあります。カンザクラ(寒桜)の系統は、カンヒザクラ(寒緋桜)をベースにしているっていうんだけど、そもそも元々のカンヒザクラが何種類かあるんです。台湾系、中国系、日本系と違うらしいんです。で、どれを交配させたかでも違うものができるわけで、みんなカンヒザクラってひとくくりにしちゃってるんですが、遺伝子解析すると実は違っていると。
※5 園芸品種(えんげいひんしゅ) 交配をして人為的に作った植物。 栽培品種。
※6 参考文献『早咲きのサクラ品種とカンヒザクラ地域集団の遺伝的関係』(2016年・金澤弓子, 亀山慶晃, 李景秀, 濱野周泰, 鈴木貢次郎)
写真 カンヒザクラ
坂野秀司:
カンヒザクラを親とする寒桜系統は多いですよね、まさかそのカンヒザクラが3つも系統があるとは驚きます。カワヅザクラはカンヒザクラを親とする桜の筆頭ですね。イズタガアカ(伊豆多賀赤)とかタイリョウザクラ(大漁桜)、ヨウコウ(陽光)など。いっぱい咲くから、ピンクで綺麗だから、早く咲いて花期が伸ばせるからとか、人気の理由は色々あるでしょうね。全国に拡散されたクローン品種の方はあまり問題ではないでしょうけど、その地域にしかない希少品種にとってこれは大問題となりますよね。これまで残ってきた千年の歴史ある品種、価値ある原種が途絶えてしまうかもしれないと。その歴史ある原種はお金では買えないので、それだけは絶対に守らなければならないと思いますよね。でもそういうことを発信する専門家やメディアってまだまだ少ないですよね。
倉田浩道:
有名な園芸品種でも、何種類かできてしまっている例があるそうです。原木から確実に同じものを増やすんだったら接ぎ木や挿し木(※7)しかないじゃないですか。でも昔はそのことを知らない人もいたので、種が落ちたものを拾って、それが原木の種だからこれは〇〇桜だといって、その木から苗を作って出しちゃったり。同じ品種なのに微妙に早く咲いたり、色が濃かったり薄かったりするということがあるらしいです。
※7 挿し木(さしき)は、植物の人為的繁殖方法の1つ。クローン技術の元祖。母株の茎の一部を切り取り(これを挿し穂という)、挿し床に挿し、芽と不定根の形成を期待することで個体数を増やす。
坂野秀司:
一方でヤエザクラ(八重桜)に代表される園芸品種も、何百年という歴史の中で、当時の植木職人が苦労して新たな品種を作り上げて、大名庭園で継承されてきた歴史があるわけですよね。なので大切に守らなければならないという価値観でいうと園芸品種も同じなんですよね。この野生品種と園芸品種の両方を守っていくということが大切だと思います。荒川堤の五色桜は全国、世界に苗木を譲った。それこそ遺伝子汚染という概念などありませんから、好意でどんどん広まったわけですよね。五色桜は戦争で壊滅してしまうわけですが、結果的に譲った地からそれらの品種が里帰りを果たして復興したという歴史をもっていますよね。我々が今カンザン(関山)などの見事なヤエザクラを見れるのは、そんな荒川堤の五色桜あってのことですし。
倉田浩道:
荒川堤の五色桜は凄いですよ。
坂野秀司:
江戸時代の大名庭園に咲いていた珍しい桜が集積された場所ですし、やはり歴史的にあそこが無かったらということになりますよね。三好学博士の評価も高いですね。
倉田浩道:
しかもその貴重な品種を囲ってしまわずに広げたから。
坂野秀司:
オープンですよね、欲しいといっているところには惜しまずどんどんクローンを配ったと。その精神がなかったら今の五色桜はないですものね。今の五色桜がなかったら、日本全国のヤエザクラの大半はなかったかもしれませんよね。
倉田浩道:
ワシントンの桜(※9)もなかったことになりますね。清水健吾ね。(※10)
※9 1912年東京からワシントンD.C.に桜が贈られた。植物学者の三好学、品川三ツ木妙華園の河瀬春太郎らの協力の元、荒川堤の桜並木が興津に集められて台木に接ぎ木された。ソメイヨシノ1800本、カンザン350本、イチヨウ160本、タキニオイ140本、シラユキ130本、フゲンゾウ120本、アリアケ100本、ジョウニオイ80本、フクロクジュ50本、スルガダイニオイ50本、ギョイコウ20本、ミクルマガエシ20本の計12種類、3020本の桜の苗木が阿波丸に乗せられ横浜港を出航、アメリカのシアトルまで輸送された後、鉄道を経由してワシントンD.C.に到着した。
※10 清水健吾、桜の品種改良は平安時代頃から行われていたと考えられており、江戸時代後期には栽培品種も含めて250種類近くが存在していた。栽培品種の多くがオオシマザクラ由来のサトザクラ群であり、これらの多くは大名屋敷や神社仏閣、水路脇に植えられていたが、明治維新後、旧大名や社寺の権威が下がり都市改造が進められると、桜が植えてある敷地は荒廃し、所有者が変わることで多くが伐採された。染井村(現駒込)の植木職人だった高木孫右衛門はこのようなサクラを惜しみ、自宅に多種多様なサクラを集めて保存を行っていた。 東京府江北村(現足立区)の村長だった清水謙吾も高木と同じ考えであり、多種のサクラを集めて保存することを計画し、旧知の仲だった高木に多種のサクラの増殖を依頼する。1885年(明治18年)に荒川の堤防が改修される時に、堤防上に桜を植えてはどうかという周辺住民の要望が持ち上がると高木と交渉し、高木が集めていた78種3000本のサクラをそっくり江北村から西新井村までの堤防上に植えた。もしこのとき入手しやすかったソメイヨシノだけを植えていたら、現在見ることのできる江戸時代の品種はもっと少なかっただろうと言われている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
写真 荒川堤の五色桜(足立区)
坂野秀司:
青木さん(江北村の歴史を伝える会)が力を注ぐ理由もわかりますよね。実際に昨年の春に荒川堤を歩いてみたんです。春なのに暑かったんですけどね。汗だくだくで歩きましたが、どこまで続いているんだろうなと、キリがなかったですね。ここで引き返そうかなと思っても、なんだかまだ先に立派な並木が続いていると、帰れなくて(笑)いい経験になりました。都市農業公園などもまさに五色桜でしたね。
倉田浩道:
荒川堤もね、前に植えたものが立派になっていますよね。
坂野秀司:
プレートや案内板が丁寧に整備されていて、さすが東京でしたね。都市農業公園の周りの道路のカンザン(関山)の並木も素晴らしかったですね。
倉田浩道:
あの並木の植栽管理図を自力で作った方がいるんです。道路を歩いて一本一本調べて、これ間違っているとか言いながら(笑)
坂野秀司:
お金とか関係なく力を注ぐ方がいるんですよね。桜川のサクラサク里プロジェクトさんや桜川日本花の会さんとかもそうですね、地図に落とし込んで管理図を作ってらっしゃいました。
倉田浩道:
荒川堤だけでは物足りずに、隅田川の桜並木まで遠征して、植栽管理図をちゃんと国土地理院の詳細な地図に一本一本樹種の名前をプロットしています。区とかに聞いてもないって言われるようなものなので、貴重な活動です。
坂野秀司:
つまりそうやって桜を守る人たちによって、あのような素晴らしい景観が維持されているわけですね。
倉田浩道:
三好学さんもそうですし、林弥栄さんという人もいますけど、そういった凄い人たちが努力して発見されたことって、どんどん埋没していますよね。でもそれではいけないと思うんです。今だったらデジタル技術もあるし、そのままの映像も記録できるし、DNAの解析もできるんだけど、でも過去の調査の歴史をちゃんと残せるようにしないといけないなと思いますね。園芸品種にはその時代の人々の思いが詰まっているんだよね。本居宣長(もとおりのりなが)みたいに、八重(やえ)はだめだとかね、一番最初に八重より一重(ひとえ)だと言ったのはあの
坂野秀司:
『徒然草』(※11)で一重が良いといった吉田兼好ですね(笑)
※11 「家にありたき木は松・桜。・・・花は一重なる、よし。・・・吉野の花、左近の桜、皆、一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん。」(徒然草・139段)吉田兼好
倉田浩道:
そうそう(笑)でもそれもひとつの考え方で、よくぞその時代にそれを言ってくれたと。そうやって言わなければならないほど、逆に言えばヤエザクラがあったんでしょうね。一重か八重で言い争ったとか、御車を返したとかね。その「御車返しの桜」(※12)は鎌倉から来ているんですよね。なんでかというと、武家が実力を持っていたから鎌倉から京都にもたらされたという伏線が出てきますよね。
※12 御車返しの桜(御所御車返しの桜)、御水尾天皇が御車に乗ってこの桜の前を通りかかった時、そのあまりの美しさと、一重桜なのか、八重桜なのかを確かめようと御車を引き返したことからこの名前がついたといわれています。一重と八重の花が入り混じってひとつの樹に咲き、毎年一重と八重の咲く位置も変わるといわれています。
坂野秀司:
なるほど、目線を変えればそうですね。ヤエザクラが流行っていての言葉ですね。私ももうちょっと視野を広げなければならないと思いますね。
倉田浩道:
もっともっと掘り下げてちゃんと桜史として残さないと、あの山田孝雄さんの『櫻史』みたいにね。
坂野秀司:
山田孝雄(やまだのりお)の『櫻史』(※13)ですね。あれはまた難しいんですよね、訳も載っているんですけど(笑)
※13 『櫻史』 (山田孝雄・昭和16年)ただ「花」といえば「櫻花」を指すといわれるほどに、春爛漫の櫻は日本人に格別の意味をもつ。ようやく長い冬が去り、光あふれる春の訪れ。その証しとして美しい薄桃色の花が万朶と咲き匂うとき、私たちの春の歓びは極まる。櫻と日本人のかかわりの歴史を、上古より現代まで七期に分け、櫻花にまつわる逸話・詩歌・人物のあらゆる事柄についてまとめた。国文学研究の第1人者による比類なき“櫻”讃歌。
倉田浩道:
難しい(笑)もうちょっと口語訳にしてくれるとね(笑)
坂野秀司:
難しいんですけど、読む度に理解は深まっていきますね。
倉田浩道:
あの本はすごいですね。でもあれにも載っていないことがあるじゃないか、なんでこれを書かないんだということもあったりね(笑)
坂野秀司:
その後に様々な方、小川さんとか、勝木先生とか、いろんな方が桜の本を出されてますが『櫻史』は必ず引用されていますよね。偉大な本だと思います。日本で一番最初に桜の歴史を記した本は、水戸藩の青山延光が書いた『櫻史新編』という文献です。これは言っておかなければなりません。漢文なので私にはさっぱりわかりませんけれど(笑)
倉田浩道:
青木さんなら読めますよ。令和桜史書きませんか?(笑)
坂野秀司:
青木さん、漢文調べて解読されてますものね。いやいや、少なくてもそれは私では無理ですね、稲葉先生でしょうね(笑)
倉田浩道:
日本花の会の和田先生に、品種マニュアル(※14)をもう一回作らないんですかと聞いたんです。700種類全部書きましょうといったんですけどね(笑)
※14 1983年発行の『日本の桜の種・品種マニュアル』(日本花の会)
坂野秀司:
結局、園芸品種の新品種は無限に出てきますからね。交配すれば新品種なわけですから。品種の記録も大事ですが、茨城県では桜史として未来へ残さなければならないことがたくさん起きています。水戸桜川千本桜プロジェクトの活動もそうですが、面白いのが、名勝桜川がある桜川市には、市役所の中にヤマザクラ課があるんです。これってすごい話ですよね。
倉田浩道:
(笑)なんていう街なんだと思いましたよ。
坂野秀司:
これまでやりたくてもできなかった名勝指定地の桜の保全事業ですが、ヤマザクラ課として本格的に取り組んでらっしゃいます。埋もれていた桜川という場所を知ってもらう町おこしのプロジェクトとしてはじまって15年、ついに市をも動かしてその悲願が達成されようとしているわけです。
また一方日立市では市役所に「さくら課」というのができまして、これがまた面白いなと思います。日立市といえば、日本さくら名所100選に2ヵ所選ばれているのですが、どちらもソメイヨシノなど園芸品種の名所です。実は市内に点在しているソメイヨシノは、大量に植えられたオオシマザクラに関係しているんです。大正時代以降、日立鉱山の煙害対策として260万本のオオシマザクラが日立の山に植えられました。そのオオシマザクラの苗木を台木として増やしたのが日立市のソメイヨシノで、戦後平和の象徴として市内各地に植えられました。つまり日立市のソメイヨシノは煙害の歴史とオオシマザクラ抜きには語れないんです。その上で園芸品種の新種の発見、命名が多いというか、積極的なんですよね。「ヒタチベニカンザクラ(日立紅寒桜)」とか、「ダイオウインヤエザクラ(大雄院八重桜)」とか。この背景にはとんでもないオオシマザクラ王国という実態が影響しているのではないかと。つまり目線を変えれば、遺伝子交雑が起きやすいオオシマザクラが大量にあるため、珍しい品種が生まれやすい環境にあり、その事は認識してないとしても、結果的に市のPRとしてヒタチベニカンザクラなどは特に強く発信されているのです。
野生品種であるヤマザクラの保全を軸にした桜川市のヤマザクラ課、園芸品種であるソメイヨシノや新品種の保全と拡充を軸にした日立市のさくら課、同じ県内で真逆ともいえるこの対比は面白いというか、どちらがどうってことではなくて、桜を大事にしていこうという方向は同じなんです。桜の歴史が動いています。
倉田浩道:
潮にも強い、公害にも強い、切っても切ってもひこばえが出てくる、オオシマザクラですからね(笑)260万本・・・山全体が真っ白けですか?クマリンの香り漂う山(笑)メジロ軍団によって外へ広がっていきますね。
写真 日立鉱山跡の大島桜
坂野秀司:
花期には真っ白けです。あのような風景は日本中探しても日立市だけではないでしょうか。古いものは100年前からのもので全部オオシマザクラです。あの風景は観る価値がありますよ。また、新品種を積極的に登録してPRしている地域というのは、茨城県内では珍しく、日立市の活動は先鋭的なことだと思います。 一方で、茨城県内のヤマザクラで最も太い個体があるのも日立市なんですね。なので、現在の園芸品種をPRしているところに、これらの歴史ある古木、意味があって植えられてきた一本桜の保全というものを追加して考えていくことを提案したいと思いまして、日立市のさくら課の担当者さんにお会いしたいと思っています。古木は衰退するスピードが違いますから、時間がありません。オオシマザクラ以前の桜の歴史が日立市にはあるということを知ってもらいたいですね。日本最大のオオシマザクラ地帯を保有する日立市でヤマザクラのことを話すという、これは混沌としてきますが、徳川光圀公が日立に訪れた時にはまだオオシマザクラもソメイヨシノもありませんでしたし、非常に深いテーマだと思います。
倉田浩道:
山の尾根筋にカンヒザクラを植えたらいいと思います。自然に新品種が生まれますよ。日立早咲きとか(笑)ピンクのタイハク(太白)が生まれるかもしれません。
坂野秀司:
(笑)すごい発想ですね。ピンクといえば、今各地の公園に増えているのがヨウコウ(陽光)ですね。映画(※15)にもなりましたが人気ですよね。
※15 映画「陽光桜 -YOKO THE CHERRY BLOSSOM-」(2015年公開・監督高橋玄)
倉田浩道:
あの映画はDVD持っていますよ。あれね、協力者の中に私の名前が入っています。
坂野秀司:
え??映画のエンドロールにですか?
倉田浩道:
映画が完成する間際に、協賛として1万円出して入れてもらいました。
坂野秀司:
そうなんですか!さすがですね~(笑)いい映画でしたよね。
倉田浩道:
笹野さんでしたっけ、いい味出してましたよね。
坂野秀司:
あそこまで狂ってないと、あのような素晴らしい桜は生まれないんでしょうかねえ(笑)お金とか関係ないですものね。
倉田浩道:
映画ではあれでもソフトですね。実際はもっと凄いと思いますよ。
写真 池花池の陽光(小美玉市)
坂野秀司:
ヨウコウ(※16)は公園に増えていますね。ソメイヨシノより早く咲くので花期が延ばせて、ほどよく紅色が強いというか。 よく見るといい桜なんですよね。ソメイヨシノと交互に植えたりすると、紅白になって。近年増えてきているなと感じる品種ですね。
※16 愛媛県に在住していた高岡正明がアマギヨシノ(天城吉野)とカンヒザクラ(寒緋桜)を交雑させて作出した栽培品種。高岡正明は第2次世界大戦中に学校教員であったが、戦後、戦死した生徒たちの冥福を祈って各地に桜を贈ることを思い立ち、環境適応能力が強いサクラを作出すべく、25年の試行錯誤の後に、寒さに強い日本のソメイヨシノに由来を持つアマギヨシノと暑さに強いカンヒザクラを交雑させて誕生させた。樹形は広卵状で、ソメイヨシノより早く咲き、花は一重で大輪、鮮やかなピンク色となるのが特徴。てんぐ巣病や病害虫に強い樹勢強健な種とされる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
倉田浩道:
ええ、立派ですよ本当に。紅が濃くて花付きがよくて。カワヅザクラも増えていますね。
坂野秀司:
いや~カワヅは特に増えていますね~(笑)
倉田浩道:
早く咲きますし、おらが町でもカワヅ植えようと(笑) 令和で話題になっている万葉集の世界はヤマザクラなんですけどね。最初に日本人が自我に目覚めた象徴なんですから。
写真 水戸千波とう粋庵
ソメイヨシノとヤマザクラ
上田豊人:(水戸千波とう粋庵オーナー)
そのお話を聞いてみたかったんですけど、ヤマザクラって名前の品種なんですか?
坂野秀司:
野生の品種です。例えば「ヤマザクラ」は「日本人」というくくりだとします。私と上田さんが顔が違うように、ヤマザクラも1本1本姿が違うんですけど、でも同じ「日本人」なんです。日本人というくくりなので、それぞれ個人には個性があって、それが魅力です。
上田豊人:
それがソメイヨシノというくくりにもなるんですか?
坂野秀司:
人種か個人かでいうとわかりますでしょうか。「ソメイヨシノ」というのは例えば「坂野秀司個人」なんです。千波湖に1000本あったら、私が1000人いるのと同じなんです。
上田豊人:
クローンだからですね。でもヤマザクラも自然に交配しているんですよね?
倉田浩道:
ヤマザクラ間で交配するのは自然なことなのでいいんです。
坂野秀司:
ヤマザクラの周りにソメイヨシノを植えてしまうと、ソメイヨシノの花粉が入ってきて交雑してしまうわけです。天然の個体だったヤマザクラに、そこに存在しないはずの園芸品種、クローンの遺伝子が入ってしまうことで、途絶えてしまうわけです。これを遺伝子汚染と表現しているんです。もちろん、このような交雑を全て否定しているわけではわりません。それ自体は素晴らしいことなので、それが普通の公園などの桜で起こるならいいと思うのですが、国指定名勝地の非常に希少なヤマザクラがその脅威にさらされるのは避けなければならないよねと言っているわけです。
地域固有の桜というものがあります。全国に分布するヤマザクラという野生品種ですが、桜川のヤマザクラは、花の色が濃いものがあったり、香りがするものがあったり、これはおそらく土壌であるとか環境が良いとか様々な条件が揃っていたからだと思いますが、これが大変貴重だとして、大正時代に三好学博士(※18)が評価して、天然記念物に指定したり、集積地である場所を国指定の名勝地としたわけです。そこにソメイヨシノなどの園芸品種を植えたら、それらと交雑が起きてしまって、その貴重なヤマザクラが途絶えてしまうという問題なんです。
※18 三好学(みよし まなぶ、1939年没)は、明治・大正・昭和時代の植物学者、理学博士。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人。特に桜と菖蒲の研究に関しての第一人者として知られ、桜博士とも呼ばれた。また、天然記念物の概念を日本に広めた先駆者であり、希少植物の保存活動に尽力した。
上田豊人:
ソメイヨシノの方が優位性があるんですかね?
坂野秀司:
強いオオシマザクラを親としていますからね、優位性はわかりませんけど、圧倒的大量に植えられていますからね。群桜で魅力を発揮する品種です。日本の桜の80%がソメイヨシノですから。
倉田浩道:
でもそれだけ大量に植えられているソメイヨシノですけど、誰がいつどうやって作ったか、自然に生まれたものなのかわかっていないんです。
上田豊人:
わかってないんですか?奈良の吉野が発祥の元なんですよね?
写真 豊島区の掲示板
坂野秀司:
またいい質問をしてくださいますね(笑)いや、江戸の染井村なんです。
上田豊人:
え、吉野じゃないんですか。
倉田浩道:
江戸の人たちが、奈良の吉野の桜は有名だよね、一度は観に行きたいよねと言ってて、でも簡単には観に行けないわけです。でもこの桜、すごくいいと、これは吉野の桜と比較しても負けない立派な桜だから、染井村にあった吉野の桜ということで染井吉野としたんでしょう。
坂野秀司:
今でもソメイヨシノを「吉野桜」と表記しているのを見かけますね。世間では一緒のものだと考えられていたのかもしれませんね。現在80%を占めるソメイヨシノですが、将来10%以下に減ったら、貴重な風景になっているかもしれません(笑)
倉田浩道:
交雑の問題はあるんですけど、ソメイヨシノが80%だからこそ世界中で日本だけに起きていることがあるんです。「桜前線」です。桜が開花したことで春が来たことがわかるわけですが。各地域の温度が一定の条件となったら花が咲くので、生物温度計みたいなものですよね。桜前線は標高と緯度の関係を見事に表してくれます。クローンでまったく同じ個体が全国に植えられているので、同じ条件で咲いていくわけです。
坂野秀司:
世の中の桜から1本だけ最高傑作、桜の代表者を選べと言われたら、現代ではソメイヨシノになるでしょうね。私はそれが昔はヤマザクラだった、ソメイヨシノの歴史はわずか150年(※19)から、いっても250年と言いたいわけなんですが(笑)
※19 1873年(明治6年)に福島県郡山市の開成山に植えられたソメイヨシノが現在確認できる最古木。
上田豊人:
ソメイヨシノは、葉っぱが出ない、花が大きい、一つの枝にたくさん花が付く、そういった条件が揃っているからでしょうかね。桜の美しいとされる条件はなんですか?
坂野秀司:
私はヤマザクラ(シロヤマザクラ)が最も美しいと思いますけどね。やっぱり赤い若葉が出ていて、同時に薄紅色の花が咲くのが最上級だと思っています。偕楽園左近の桜がそうでしたし。だけどソメイヨシノにも別の魅力はあります。特に学校などでは絵になりますよね。
上田豊人:
たぶん僕らが子供の頃から入学卒業シーンで見てきたのはソメイヨシノですからね。あれが原風景になっていますよね。
坂野秀司:
それも大切なんですよね。なのでヤマザクラであろうとソメイヨシノであろうと両方大切なんです。ただ、貴重な品種、数が少ない品種の周りにソメイヨシノを増やしてしまうと、交雑(※20)が起きて、その貴重な桜が無くなってしまうので、それは避けたいですよねってことなんです。
※20 ソメイヨシノは極めて多く植えられているため、地域に自生する野生種のサクラと交雑してしまう遺伝子汚染が報告されている。これにより各地に自生する野生種の子孫の桜の花の形や耐候性、強健性などの性質が将来的に変わってしまう可能性があり、自生する野生種の保存の観点から、野生種の桜が自生する地域にソメイヨシノを植える際には、鳥による花粉媒介の可能性を低くするために距離をとって植えるなど、注意が必要であるとされている 。この遺伝子汚染の問題はオオシマザクラの植樹でも懸念されている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上田豊人:
さすがにヤマザクラのクローンをたくさん作りましょうというわけにはいかないんでしょうか?
坂野秀司:
天然記念物になっているヤマザクラなどは、接ぎ木で増やして保存されたりしていますが、やっぱりヤマザクラは自然交配によって実生(※21)で増えていくことが魅力ではないでしょうか。三好学博士によりますと、ヤマザクラは若葉の色と枚数、花の色と形と枚数、香りの有無、毛の有無、開花時期などに違いがあります。これらの選択肢が組み合わさってひとつのヤマザクラがあるわけで、山に100本咲いていたら、この違いが出るわけです。春の錦ですよね。
※21 実生(みしょう)草木が種から芽を出して生長すること。その発芽した植物。
上田豊人:
今回倒れた偕楽園左近の桜(※22)をまた頂きたいとお願いしているのも、クローンではなくて、自然に生まれてくるものをということなんですか?
※22 水戸藩9代藩主徳川斉昭公の正室、登美宮吉子夫人降嫁の際に、京都御所紫宸殿左近の桜の種から育てた苗木鉢植え3本を仁孝天皇より賜りました。そのひこばえから育てた2代目が水戸弘道館落成の際に正庁前に植えられましたが戦争で枯死。昭和38年に宮内庁からいただいた苗木の内1本が偕楽園の好文亭前に植えられた左近の桜(3代目)です。その左近の桜は令和元年9月の台風で倒木してしまいました。
坂野秀司:
今回の場合は「左近の桜」でなくては意味が薄まるというか、左近の桜をいただきたいというお話なので、詳しくはわかりませんが、いわゆる接ぎ木なのかひこばえなのか、むしろ、クローンをいただきたいという話だと思います。昔と同じように実生の苗木でもいいのかもしれません。
上田豊人:
京都御所からいただいた苗木で、土が合わないなんてことはあるんでしょうか?
坂野秀司:
それはないと思います。プロの職人さんが植えると思いますので、土壌はしっかり考えるでしょうし、そもそも先代の左近の桜があれだけ立派に成長していましたからね。樹齢63年であの樹観、健康優良樹に認定されていましたから。
倉田浩道:
あそこは風をまともに受ける場所ですから、根鉢を深くして、根が下まで入るようにしてあげるといいと思います。
上田豊人:
あの倒木がなければ、ヤマザクラはあと何年ぐらい生きられたんですか?
坂野秀司:
環境次第なので断言はできませんが、うまくいけば200年は生きると思います。県内には300年、400年といわれるヤマザクラもあります。
上田豊人:
坂野さんが先日Facebookに載せていた、大きなヤマザクラありますよね。あれは何年ぐらいですか?
写真 天神の山桜(かすみがうら市)
坂野秀司:
かすみがうら市の小松﨑樹木医に教わったヤマザクラですね。あれは100年から200年ぐらいではないでしょうか。ただ、わかりませんけどね、偕楽園左近の桜が樹齢63年であのサイズだったので。個体によって成長の度合いが違うと思いますし。
上田豊人:
あの見つけられたヤマザクラは完全に個人の所有地で、これまで全然知られていなかったんですか?
坂野秀司:
集落の端にある共同墓地でしたね。お堂があって。いわゆる墓守桜(はかもりざくら)です。通りから入った場所にあるので、一般的には知られていない、おそらく集落の方々しか知らないような桜でしょうね。
倉田浩道:
その集落は今後存続していきますか?
坂野秀司:
どうでしょうかね。お墓の数を考えるとだいぶ大きな共同墓地でしたから、存続の危機というわけではないでしょうね。
上田豊人:
なるほど、集落が存続しなければ、墓地も廃れていってしまいますものね。
倉田浩道:
何百年も残っている木というのは、守ってきた人たちがいるんですよね。
坂野秀司:
現に樹齢300年以上、幹周り7m以上の墓守桜が、所有者の判断で伐採されるという例があります。ではなぜ切ってしまうのかというと、共同墓地で桜の枯れ枝や落ち葉などが、他人のお墓に落ちることで、迷惑がられるということがあるんですね。何百キロという枝が墓石を傷つけたりもあるでしょうし。お線香の火が桜に燃え移って火事になるだとか。そういったリスク管理という意味で伐採を判断されるケースですよね。さきほどもそんな話をしていたのですが、親の世代までは大切にされていた桜でも、息子の代になったら無関心で伐採してしまうという例もありますね。
古事記と万葉集
倉田浩道:
それはね、古事記を学んでいないからです(笑)令和といって万葉集が脚光を浴びていますけど、古事記と万葉集は元々学ばなければならないものだと思います。
坂野秀司:
急速に時代が進んでいるといいましょうか、文化継承、風習、考え方の断絶が起きていますね。
倉田浩道:
それはある方いわく、戦争で負けて一番恐れていたことですね。要するに、日本の古代のことを消して、新しい日本を創ろうとしたわけです。天皇を否定するとどうなるかわからないので、過去のこと、古事記のことや神様のことなどを消してしまう教育に変えさせられたと。その著者の本を読んでいて、なるほどなと思いました。まともに古事記や万葉集って習ってないですからね。西洋ではキリスト教を皆学んでいますよね。カトリックにせよプロテスタントにせよ信仰しています。そしてイエスキリストの存在を信じています。我々がじゃあ、神様を信じようと思ったら、イザナギ、イザナミ、アマテラスオオミカミですが、そんなことを今言ったら、何言ってるの?という話になりますよね。日本人の中では、そんなの聞いたことないという人も増えています。そこからもう変わってしまっているんですよ。
上田豊人:
小学校の頃からパンと牛乳を食べるようになって、そんなところにも米国が入っていますよね。神道を信仰している人というか、深い意味は学ばずに仏教と神道二つを信仰しているというか。
倉田浩道:
古事記を読んでいると面白いですよ、訳文ですけどね。神社へいって手水舎で手を洗うでしょう。あれはなんでだと思います?
坂野秀司:
身を清めるためですか?
倉田浩道:
なんで身を清めるんですか?
坂野秀司:
神様に対して失礼のないように?
倉田浩道:
そもそもあれは、イナザギが黄泉の国へいってイザナミに会って変わり果てた姿を見て帰ってきて、穢れ(けがれ)を落とすために川に入って禊ぎ(みそぎ)をしたんです。そのことで色々な神様が生まれてくるんですけど、それが起源なんです。神様を信じるっていうことは、禊ぎをすることにつながるんです。そう思うと、なぜちゃんと禊ぎをしないといけないかがよくわかるんです。親にやれと言われたからではなくて、そのことを知っていれば、禊ぎをするのは当たり前でしょうとなるんです。でもそんなことは誰も教えてくれないんです。
坂野秀司:
神社とお寺の区別がつかない人も増えているようですね。
倉田浩道:
昔は神様も仏様も一緒の時代があったんです。神様の使いで仏様が来たという解釈ですよね。
坂野秀司:
神仏習合(しんぶつしゅうごう)(※23)ですね。神様でいうコノハナノサクヤヒメが、仏教では子安観音ということですよね。日本人は自由に解釈しますよね。八百万の神ですから。
※23 神仏習合とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。
倉田浩道:
明治時代になって、仏は邪道だといって切り離すんですけど、その時に何をやったかっていうと、神社の鎮守の森の木をお金のためにみんな伐採するんです。それって何百年何千年という歴史のある森だったものをみんな皆伐してしまうわけです。今でいう桜や杉の巨木が全部失われていったんです。それに立ち向かった人が一人いるんです。南方熊楠(みなかたくまぐす)、和歌山の変な学者なんですけど、菌類を勉強した人です。
坂野秀司:
図譜を描いた人ですか?子供の頃少年ジャンプで『てんぎゃん』という漫画になっていましたよ。
倉田浩道:
そうです、菌類図譜(※24)ですね。熊野の山の中に入っていって、常に裸でいるんです。ネイチャーに書いた論文の数は日本人ではトップで、100年前にそんなことをやった人がいるんです。今だとそんな人はもう出ないでしょうね。
※24 博物学者、南方熊楠による彩色菌類図譜集。きのこの写生図、標本、胞子、英文などが収められた、まるでアート作品のようなドローイングの数々を収録。「熊野の森で40年をかけて描き続けた執念のライフワークから120枚を厳選」
坂野秀司:
今倉田さんのように全国を見ている方が茨城県の桜に注目して、こうやって足を運んでくれてるわけじゃないですか。だから今こそ、茨城県の自然とか、桜の歴史をちゃんと外に見せて、1300年に渡って受け継がれてきた桜を愛でる文化で名誉挽回といきたいですよね。
上田豊人:
機は熟したと感じているんですね?
倉田浩道:
桜を愛でる心は日本人の心です。
坂野秀司:
茨城県のラッキーなところは『常陸国風土記』の存在、「名勝・桜川」の存在、「徳川御三家水戸家」の存在ですね。これらが軸となって進んできた桜の歴史があります。その歴史を掘り起こして教えてくださっているのが水戸桜川千本桜プロジェクトの稲葉先生で、そしてその歴史が我々の目の前で今も動いているわけです。桜川の保全事業、水戸桜川の植え継ぎ、偕楽園左近の桜後継樹の申請などです。
上田豊人:
茨城県の桜が円熟期を迎えようとしている時に、偕楽園の左近の桜が倒れてしまったのは、なんとも言えないですね。
倉田浩道:
左近の桜はなにかを訴えたんですよ。
戦争と桜
倉田浩道:
なぜ桜なのかというと、日本を愛するからですよ。それをソメイヨシノを使って「桜のように散れ」といった人たちは情けないですけどね。靖国で会おうと言った、命令した人たちはほとんど生き残っていますから。
坂野秀司:
そうですね。どうしようもないですね。桜花特攻隊ですね。
倉田浩道:
そう、それですよ、桜花(おうか)って。爆弾を積んでジェット噴射で敵艦に突っ込むんです。
坂野秀司:
ゼロ戦ではなくて、爆弾機なんですよね。
倉田浩道:
メッサーシュミットという技術を使っているんです。ロケット噴射して。舵だけ付いていて、本体の飛行機から切り離されたら、もう絶対に生きて帰れないんです。
坂野秀司:
この資料の特攻隊の部隊名(※25)に注目してください。大和隊とか敷島隊、左近隊とか、全て桜の名前や和歌から取られているんです。
※25 神風特別攻撃隊の名称(桜に関連するものを抜粋)朝日隊、山桜隊、大和隊、敷島隊、若櫻隊、初桜隊、葉桜隊、桜花隊、左近隊、右近隊、吉野隊、万朶隊、天桜隊、富嶽隊、第1正気隊、靖国隊、皇花隊、天桜隊。
上田豊人:
うわ~本当ですね。
写真 東湖神社 正氣の歌
坂野秀司:
万朶隊(ばんだたい)とか正気隊(せいきたい)があるんですけど、これ水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)の『正氣の歌』(※25)の中に出てくる「万朶の桜」から取られていると思います。本来藤田東湖が記した意味ではなくて、それを悪く使われてしまったんです。
※25 『藤田東湖・正氣の歌』は、日本国の天地自然の美しさと尊皇の心を詠んだもの。幕末の志士が愛唱し、明治維新に導く思想的原動力となった歌といわれています。
倉田浩道:
曲解してね。本居宣長(もとおりのりなが)(※26)の敷島の桜も一緒ですね。
※26 伊勢国(三重県)出身、江戸時代の国学者。
坂野秀司:
「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」
(敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花)
この美しい和歌を、日本軍は悪い方に解釈を捻じ曲げて、日本人たるもの桜のように美しく散れと、戦争に利用したんです。それが先ほどの特攻隊の部隊名にも表れていますよね。
倉田浩道:
本居宣長は単に、朝陽が照らしている桜がすごく綺麗だったのでこれを美しいと思うのが日本人の心だよね。って書いただけなのに、散ることが日本人なんだって言ってしまっているわけです。
写真
坂野秀司:
茨城県の土浦市って海軍の街だったんです、近くに霞ヶ浦の特攻隊基地がありました。予科練ですね。現在の土浦市には桜町と大和町という町名が残っていますが、桜町にはさらに細かく割り振られた旧町名がありまして、敷島町、朝日町、匂町、小桜町です。(三好町もありますが、三好学博士とは関係ありません)土浦駅前大和町通りから阿見町方面への近道が必要となって桜川方面に向かって新しい道ができました。これが敷島通りです。元々大和町という町名があったので、本居宣長の和歌から取られたといわれています。
倉田浩道:
うわ~・・・・(絶句)
坂野秀司:
そこに軍隊があったからなんですよね。この町名の傍を桜川が流れていて霞ヶ浦につながっているんです。土浦の桜川はソメイヨシノの桜堤が有名ですが、これは戦前からの桜名所です。現在でも一番見事な場所はやはり桜町沿いですね。土浦桜川堤の存在も少なからず影響しての町名だったのではないでしょうか。桜と切っても切れない町が土浦なんです。
倉田浩道:
海軍の基地は三重にもあったんです、さっき話した香良洲町の三重海軍航空隊(※27)ですが、特攻隊を養成していたんです。
※27 三重海軍航空隊は、昭和17年、海軍飛行予科練習生(予科練)教育隊として開隊された。
写真 陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校(阿見町)
坂野秀司:
なんだか藤堂家といい、今日の三重県のお話は茨城県と共通点が多いですね。つまりこれらは、三重県や茨城県だけじゃなくて、おそらく日本の桜の縮図なんでしょうね。
霞ヶ浦の飛行場があった場所は、現在は自衛隊の武器学校ですが、桜の紋章が今もありますよね。
上田豊人:
そうなんですか。
坂野秀司:
笠間市にはゼロ戦の訓練をした飛行場がありますね、映画「永遠の0」のロケ地にもなっています。そこに見事なヤマザクラがあるんですが、その桜は当時の兵隊さんが見ていた桜で現存しているんです。阿見町の武器学校、予科練近くの道路にも当時のソメイヨシノが現存しているんですよ。
上田豊人:
すごい話ですね。
坂野秀司:
ソメイヨシノは歴史は浅い品種ですが、無視できない理由はそういった負の歴史も抱えているからなんです。
倉田浩道:
個性をつぶすという趣旨に、ソメイヨシノが利用されたんですよね。
坂野秀司:
そうですね、集団心理というのでしょうか。群桜(ぐんおう)で真価を発揮する、一気に咲いて一気に散るという、クローンの集合であるソメイヨシノの成せる業ですよね。靖国神社のソメイヨシノ(※28)は東京の開花基準木になっていますが、毎年あのニュースを見るたびに、こういった負の歴史を思い出しますよね。軍歌の「同期の桜」(※29)も有名です。
※28 神雷部隊の将兵たちは戦死したら「靖國神社の御神門を入って右の二番目の桜の木の下に集まって再会しよう」を合言葉にしていた。 戦後生き残った戦友は、この合言葉を大切にし、桜を奉納した。 奉納された桜は「神雷桜」と名を記されている。(海軍神雷部隊戦友会)
※29 「同期の桜」(どうきのさくら)は、日本の軍歌。太平洋戦争時に歌われたもので、華々しく散る姿を、桜花に喩えた歌。
上田豊人:
いかにもソメイヨシノは日本のオフィシャリティーがあるかのように伝えているけども、そうじゃない面があるんですね。
坂野秀司:
でも、戦後には学校や公園、街道などに平和の象徴としてソメイヨシノは増えていったので、悪い部分だけではないと思います、今の私達の原風景になっているわけですから。でも、先ほどの倉田さんの話じゃないですけど、個性が大事なヤマザクラに変わって、集団心理の象徴でもあるソメイヨシノの群桜が、明治維新以降の日本をつくるために利用されたという背景は、間違いなくあるでしょうね。その究極が戦争利用だったんだと思います。
上田豊人:
桜を語ろうと思ったら、セミナーの時間は30分や1時間では無理ですね。
倉田浩道:
1300年分ですもん(笑)
坂野秀司:
1300年を40分で語らなくちゃいけないんです(笑)
日本神話について
倉田浩道:
機会があればぜひ熊野の方にもいらしてください。
坂野秀司:
行きたいですね。クマノザクラもヤマザクラ同様の魅力があるとわかりました。
倉田浩道:
熊野の歴史を勉強していて読んだんですけど、奈良平安時代に天皇が30回ぐらい来ているんですね熊野に。後鳥羽上皇だったかな。熊野詣をするんですが、なんでだと思います?
坂野秀司:
伊勢神宮ではなくて熊野ですか?どうしてでしょう?
倉田浩道:
熊野はいわゆる黄泉の国、あの世とされていて、そこへ行って身を清めたら、自分は清らかになる、生き返れるんだと思われていたんです。悪い事ばかりしていますからね当時は。だから穢れとか、天変地異とかが起きると、なんとかうまく正したいという思いがあって、熊野に行っていたんです。
坂野秀司:
先ほどのイザナギ、イザナミの神話の具体化ですね。
倉田浩道:
花の窟(いわや)という神社があるんですが、そこはイザナミが祀られているんです。で、イザナミと言えば黄泉の国の入口。大きな海岸のすぐ傍に岩があって、そこの洞穴にご神体が祀られていて。年に2回、岩の上から海岸に向かって綱をかけて綱引きみたいなことをするんです。日本最古の神社といわれています。神武天皇が神武東征で高千穂の方から東へ向かってきますよね。
坂野秀司:
神武東征(じんむとうせい)、有名ですね。
倉田浩道:
大阪まできて、地方の豪族に苦戦するんです。そこで気が付いたのは、神様はアマテラスオオミカミだから太陽の神様ですよね。太陽は東から昇るので、その東にある太陽に向かっていったからうまくいかなかったんだと。要するに神様に逆らうように進軍したから負けたんだと。だったら一旦南へ行って回り込んで西へ進軍すればいいだろうと、熊野に来てから北西に、太陽を背にしていったらうまくいったという。
坂野秀司:
神話の舞台になっているあたりが凄いですよね。
倉田浩道:
古事記というのは天皇支配の正当性を文学的に語っているもので、日本書紀は対外的に国の公的な歴史書として書かれているんですよね。
坂野秀司:
若干矛盾があるらしいですよね、古事記と日本書紀では。
倉田浩道:
じゃあ万葉集は何かっていうと、その当時の民が詠っていたもので、大伴家持(おおとものやかもち)が編さんしたといわれています。古事記の中では、正史で勝ったといわれている人たちは中臣鎌足(なかとみのかまたり)で、実権を握った側の人たちが、自分に都合のいいストーリーを描いて、自分は正当な神の子孫であるということを書いて、支配する権利があるんだと言っているわけです。でもその陰に消された人たちのことが、万葉集の端々に出てくると。その陰の歴史をそのまま消してしまってはいけないということで詠まれた歌が結構入っているようなんです。だから大伴家持は最終的に出世できなかったのではないかと。最後の歌がすごくいい歌を詠んでますよね。お正月に雪が降った、これはすごくいい吉兆だ、だからこれからの世の中は良い事があるだろうと。こんな歌にして終わっているんです。でも、そこから大伴家持は15年から20年ぐらいは生きているんですが、一首も歌が残っていないんです。そこで絶筆というか。
坂野秀司:
不思議ですね。何があったのでしょう?
倉田浩道:
不思議でしょう。多分、批判的な、あまり言ってはいけないような歌を織り込んだから、こいつは許せないという動きがあって消されたんじゃないかと。
大和にもうひとり天から下りた神様がいたって知ってます?
坂野秀司:
天孫降臨(※30)ですか?あれは高千穂じゃなかったでしたっけ?
※30 天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。 邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をした。『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
倉田浩道:
天孫降臨はニニギノミコトと言われてますけど、神武天皇が大和に行った時に、大和にもうひとり天から下りた神様がいたんです。
坂野秀司:
いや知らないです。
倉田浩道:
ニギハヤヒノミコトだったかな。神武天皇が俺に従うか、どうするんだと言った時に、ニギハヤヒノミコトはあなたに従いますと、自分の兄を裏切って恭順(きょうじゅん)しました。そのニギハヤヒノミコトの子孫が物部氏(もののべし)だったという話です。だから物部氏は消された側の人ですよね、乙巳の変(※31)で。その歴史を匂わせることが万葉集のあちこちに書かれていると。大伴家持はよく頑張ったなということなんです。
※31 乙巳の変(いっしのへん)とは、飛鳥時代645年に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変である。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
坂野秀司:
どうしても歴史は勝った側の都合で刻まれていくものですからね。これは仕方ないことですけど、万葉集で大伴家持はそこに一矢報いたというわけですね、なるほど、面白いですね。
倉田浩道:
古事記でヤマトタケルノミコトは東征して、静岡で謀られて火の海に取り込まれたけど剣で薙ぎ払って、ネズミに助けられて穴に入ったとかって。
坂野秀司:
ヤマトタケルノミコトがここのすぐ近くの那珂川を舟で渡って、その舟を埋めて東北に向かったという伝承地がありまして、その舟を埋めた場所が今は神社になっていまして、これが東征神社(とうせいじんじゃ)というんです。
倉田浩道:
東に征服するでそのまんまの字ですか?
坂野秀司:
そうなんです、植わっている桜はヨウコウ(陽光)ですけどね(笑)だけどそのような話ってどこまで本当なんでしょうか。八幡太郎、源義家とか、坂上田村麻呂ですとか。各時代のヒーローが神格化されて伝承地となっていますね。ヤマトタケル来てますかね?
倉田浩道:
来てると思いますよ。少なくても常陸国は来たでしょう。東征では大きな戦いは起きなかったみたいです。要は俺に従うのか逆らうのかと話し合いで平定していったみたいです。
坂野秀司:
山梨県の「山高神代桜」はヤマトタケルノミコトが植えたということで樹齢2000年ですよね。こちらでいうと、源義家が旗竿を挿して芽吹いたといわれる「旗桜」などがありますが。でもそれをそんなわけないでしょうと話を終わらせてしまうのか、伝承も大事なのでそういったことを大切にしていくのか。私は口伝も大事だと思っているので、そういった話は漏れなく記録したいですが。
倉田浩道:
大事ですよ。まったくの100%嘘というわけではなくて、そうあってほしいという思いがあって、それに結び付けるような材料を集めたら、こういうストーリーで言えるじゃないかとしているところもありますよ。でも、なんでそう思ったかが大事です。そう思いたかったかというところが。三重県の三重って、ヤマトタケルにちなんでいるんですよ。
坂野秀司:
え~?いや~尽きないですねネタが(笑)
倉田浩道:
ヤマトタケルが勝ち続けて尾張の国に帰ってくるんですが、途中で伊吹山の神を抑えるのに、草薙の剣は持っていかなかったんです。それで伊吹の山に行ったら麓でイノシシに会ったんですね、そのまま素手で成敗しようと思ったんだけど、それは帰りでいいやと山に登っていったら、実はそのイノシシが伊吹山の神で、結局氷雨が降るような嵐が起きて、ぼろぼろの体で山から下りてきて、尾張の国には行かずに、足を引きずりながら大和に帰ろうとして、途中の杖突坂(つえつきざか)という坂で足がぼろぼろで、三重に折れてしまうぐらいぐちゃぐちゃになってしまってこれでは動けないと言ったのが、三重のいわれで、そこから先の能褒野神社(のぼのじんじゃ)(※32)という所で亡くなって、国鳥になって西の空に飛んでいったという伝説があるんです。能褒野神社に実際にお墓もあるんですよ。
※32 『古事記』や『日本書紀』によると、日本武尊は能褒野で死去したという。
坂野秀司:
三重に折れるというのは例えでしょうけど、ヤマトタケルの逸話が県名になっているとはすごいですね。
倉田浩道:
三重にヤマザクラの八重のいいのがありますよ。その名も「コノハナザクラ」(※33)です。日本に4本しかないんです。
※33 員弁町の水谷重昭氏宅庭園の桜は古くからヤマザクラの珍種として知られていました。1998年に員弁町が調査したところコノハナザクラであることが判明。ヤマザクラの変種で、本樹を含めて日本に4本(京都府亀岡市、三重県東員町2本)しかないという稀少種の桜です。
坂野秀司:
ヤマザクラの八重ですか、見たことないです。
倉田浩道:
三重のいなべ市員弁に、あとは京都の景山とかにあります。綺麗ですよ、雌しべが3本から4本でてきて、うまく結実しないんですけど、一応実が生ってふたつみっつくっついた状態で出てきて、ぽとりと落ちて。
坂野秀司:
そのような希少品種が遺伝子汚染にさらされることなく残されていくことを願いたいですね。いや~、三重は話が尽きないですね。時間も遅くなりましたし、そろそろお開きにして帰りますか。
偕楽園左近の桜を想う
坂野秀司:
(千波湖から水戸駅に向かう車中で)本当はこの信号に停まると、向かい側の高台にライトアップされた左近の桜がどーんと見えたんですが。今は見れなくなってしまいましたが。まさか無くなってしまうとは思わないですものね。
倉田浩道:
枝折れぐらいだったらね、ありえると思うけど、一気に倒れるとはね。現場は見たんですか?
写真 令和元年9月10日撮影 偕楽園左近の桜
坂野秀司:
もちろん見ました。根ごとひっくり返ってたんで、倒れたところも見ましたし、次の日チェーンソーで伐採された時も見ましたし、その後更地になるまで通いました。他ならぬ横綱ですからね。稲葉先生から一報が入ったんです。今日の台風で倒れたと。翌朝まで待てずにその日の夜に見に行ったんです。そしたら桜がライトアップされていて、下から見えたんですね。あれ?倒れてはいないのかなと。これは枝折れで済んでいるなと安心したんです。ところが翌朝改めて園内に行きましたら、根元から倒れていて、樹高があるので下から見てもわからなかったんですね。
倉田浩道:
まさか根から倒れるとは思いませんよね。
坂野秀司:
鎌倉の鶴岡八幡宮の大イチョウの倒木を思い出しました。あれも根元からでしたね。でもあちらは立派で、倒れた木の芽をお守りにして配布したり、色々やったんですよね。左近の桜は今のところなにもなさそうですね。残念ですが。天皇家ゆかりの桜が、なんの話もなくて処分されてしまっていいのかと思いましたね。
倉田浩道:
それなりの弔い方はあるでしょうね。偕楽園というのは常磐神社の境内の一部というわけではないんですか。
坂野秀司:
常磐神社は徳川光圀公と偕楽園を造成した徳川斉昭公を祀る神社です。偕楽園は斉昭公が弘道館と対で造成した庭園なので神社ではないんです。
倉田浩道:
なるほど。
坂野秀司
今日は三重の恐るべき歴史深さを味わいました。
倉田浩道:
いやいや、まだまだですよ、私も稲葉塾に通って勉強しないと(笑)
坂野秀司:
ホテルに着きましたね。明日は9時半に会場でお待ちしています。今日は面白い話をありがとうございました。
最後に
対談を通じて感じたことは、倉田さんは三重県の歴史と桜に誇りをお持ちだということです。このことは私自身とても勉強になりました。地元の歴史を誇りをもって語れるというのは素晴らしいですし、むしろ全国に出ていく上では、このお国自慢は必須なのかもしれません。茨城県の桜愛好家のみなさん誰もが、茨城県の桜とその歴史に自信をもって語ることができたら。これはまさに茨城県の名誉挽回につながるのではないでしょうか。今も日々更新されている桜の歴史。これをしっかり記録し発信してまいりたいと思います。(坂野秀司)
参考・引用資料
『早咲きのサクラ品種とカンヒザクラ地域集団の遺伝的関係』(金澤弓子, 亀山慶晃, 李景秀, 濱野周泰, 鈴木貢次郎・2016年)
『櫻史』 (山田孝雄・昭和16年)
『江北の五色桜』(江北村の歴史を伝える会・2015年)
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