【水戸市】桜町と桜坂(高尾坂)

令和元年7月撮影

茨城県水戸市


水戸家に仕えた奥女中高尾(たかお)の屋敷があったとされる旧町名桜町。

桜町はもともと寺院が立ち並ぶ寺町だったそうですが、光圀公の寺社整理でそれらが移転。

寺院には立派な糸桜(シダレザクラ)があったそうで、桜町と呼ばれるようになりました。

江林寺の跡地が高尾の屋敷となりました。その高尾の屋敷にも立派な糸桜(シダレザクラ)があり、光圀公はそこで桜の和歌を残しています。

屋敷近くの坂は「高尾坂」と呼ばれていたそうですが、光圀公の命によって「桜坂」となりました。


水戸藩士青山延光著の『櫻史新編』は花神、名区、名花、雑記に分けて書かれた日本初の桜の歴史本です。その中で「古へ枝垂櫻あり、姿艶にして比い無かりき」と水戸桜町の地に見事なシダレザクラがあることが書かれています。 東照宮の祭事ではその桜町のシダレザクラを模した「大しなひ」(※1)が祭礼行列に並びました。 


 ※1 しないとは、「縨」と書く母衣(武士が矢をよけるためにつけた風袋)の別名 

 参考文献:稲葉寿郎氏Facebook記事


光圀公はお世話になった老女「高尾殿」の一周忌に妙雲寺にシダレザクラを植えたと伝わっています。それが現在の見川小学校のシダレザクラです。

令和元年7月撮影

現在の桜町と桜坂

令和元年7月撮影

桜坂と芸術館のアートタワー


参考文献:水戸桜川千本桜プロジェクトHP

光圀公と老女高尾~櫻町と妙雲寺の桜~

光圀公と桜の物語に、欠かせぬ女性がいる。高尾という水戸家に仕えた奥女中である。 『水府地理温故録』(以下『温故録』と略す)*1によれば、高尾は元和3()年の生まれというから光圀公より歳年上ということになる。 初代藩主頼房公の時代から水戸徳川家の奥に仕えた女性である。同じく光圀公の侍医井上玄桐の『玄桐筆記』には、正室泰姫の侍女で、生涯光圀公の傍近くに仕えた唯一の女性・左近局が、高尾本人から聞いた話として、光圀公1歳の頃、ちょうど在国中だった頼房公から高尾に対して、光圀公を「汝の養子にせよ」と戯れにいわれた、というエピソードが残されている*2。伝わる高尾の生年からすると御殿女中の見習いとしても若年に過ぎる気もするが、ともかくも乳児期の光圀公を知っている数少ない女性の一人であることは間違いない。 高尾に関する詳細な伝記はないが、生母から切り離されて育った光圀公にとって、高尾は、まさに母とも姉ともいえる存在だったのではないだろうか。光圀公の幼少時については乳母の三木之次夫妻の存在がよく知られているところだが、三木夫妻と同様の立場にいたということが考えられる。また後年は水戸家の奥を取り仕切る立場にあったようで、それを示すかのように、光圀公は老境に入り御殿勤めを退いた高尾に水戸城下に屋敷を与えて住まわせている。初めは“杉山内うきやらい”という水戸城の北側の那珂川側に住んでいたが、のちに、櫻町(現在の金町2丁目にあたる)に屋敷を与えられた。 『温故録』によると、この櫻町は、もともと江林寺、吉乗院、龍蔵院、善重寺、不動院、高野坊富士別当(富士権現)といった寺院が立ち並んでいた寺町であったが、光圀公が断行した寛文年間の寺社整理によりことごとく移転した。これらの寺院の境内に桜が数多く植えられていたため、屋敷地になった後も桜が目立って多かったために櫻町と呼ばれるようになったとされている。しかし、富士権現の存在が気になる。富士信仰において信仰される神は桜の化身である木花咲耶姫である。もともとこの地に山桜が自生していて、寺院の敷地になったことで桜が守られたため、この地に富士権現が誘引されたと考えることもできるのではないだろうか。それゆえの櫻町とも考えられる。ちなみに富士権現横の坂を「富士坂」と呼んだところから、坂から上町の中心方面へ伸びる道筋を「藤坂町」(現大成女子高等学校付近)としたらしい

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