【水戸市】桜小路・新屋敷の桜

令和元年7月撮影

茨城県水戸市


旧町名桜小路。ここは水戸藩家老、中山家の新屋敷があったとされる場所で、見事な桜が咲いていたそうです。

この辺りは、後に徳川斉昭公によって30以上の屋敷割りが行われ、松小路、梅小路、桃小路というように名付けられました。

水戸桜川千本桜プロジェクトHPの記事によりますと、おそらくその新屋敷跡地が「桜小路」ではないかということです。

令和元年7月撮影


参考文献:水戸桜川千本桜プロジェクトHP

水戸新屋敷と桜

水戸市新荘3丁目付近、ここはかつて「新屋敷」と呼ばれた場所でした。 天保7(1836)年、9代藩主斉昭公は、定府制で江戸詰めの家臣が多く負担の多い水戸藩の改革の一環として、家臣の一部を国元に帰住させる方針をとります。空屋敷・空地などを宛がいましたが、それでも不足しているので、当時の常葉村にあった畑地(陸田)を屋敷地に整備して桜・松・梅・桃・柳・花・桐・紅葉・常磐と小路名をつけて30以上の屋敷割りを行いました。その50年前の天明6(1786)年に書かれた『水府地理温故録』(以下『温故録』)に「諸人呼んで新屋敷といふ」とありますので、屋敷割以前からこの地は「新屋敷」とよばれていました。 『温故録』に以下の記述がみられます。「…午より中山備前守下屋敷原分と有。案るに、寛文六の午なるや…(中略)…真中に御殿と称せる一郭有。今は囲ひのみにして御館は廃せり。かの御殿と称せる惣囲ひには桜樹多し。これは風軒君の御物好きにて植れ給ひし、名におふ数種のさくら也とぞ。」 ここには極めて重要なことが書かれています。まずなぜ「新屋敷」だったか、それは水戸藩家老の筆頭でいわゆる附家老で松岡領(藩)を与えられた中山備前守の下屋敷があった場所だったために「新屋敷」の呼称がうまれたということです。そしてこの場所を拝領したのが寛文6(1666)年午年のことだった、ということです。この時光圀公が藩主として5年目39歳という年、前年朱舜水をもとなって就藩し、寺社整理を断行するなど、意欲的に藩政を展開し始めた時期でした。当然下屋敷を与えられたのは光圀公の命でしょう。当時の中山家の当主は信治でしたが、慶安2年に隠居して風軒と号していた先代の信政がまだ元気に活躍していました。『新編常陸國誌』によると、中山家の初代信吉は河和田村と見川村にはさまれた地域に両村の名をとった見和新田を開発し、自らの家臣たちを住まわせ見和村としていました。見川村丹下地区にも「備前山」と称する旧名が伝わることから、桜川(当時は箕川)をはさむ一帯に中山家の所領があったことが想像されます。中山家はここを藩に納めて代替地として得たのが「新屋敷」だったのです。 光圀公と中山信正(風軒)は中山の別荘で枕を並べて寝たり、詩歌も数多くやり取りするなど主従関係を超えた親密な間柄でした。また、信正は「方丈記」の解説書を書くなど、文人としての一面を持ち合わせ

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