【水戸市】弘道館左近の桜
令和3年3月撮影
茨城県水戸市 弘道館
渋沢栄一が敬愛した藤田東湖先生の『正気の歌』
その一節「万朶の桜」とはまさに弘道館左近の桜に象徴される水戸尊王の心とヤマザクラの満開風景でしょう。
発為万朶桜
弘道館左近の桜!今、青天を衝き白雲のごとく咲き誇る!
水戸の桜花観「万朶の桜(ばんだのさくら)」を体現する「弘道館左近の桜」
「万朶の桜=日本人の正気の象徴、清らかな心」
令和3年3月撮影
赤芽と薄紅色の花、最上級とされるヤマザクラのお手本のようなバランスです。
令和3年3月撮影
令和3年3月撮影
令和3年3月撮影
令和3年3月撮影
水戸城大手門を入れることができました。
令和3年3月撮影
令和3年3月撮影
令和3年3月撮影
復元された水戸城大手門と弘道館左近の桜。
令和3年3月撮影
平成29年4月撮影
写真提供:坂野しげ子(小美玉市)
水戸に左近の桜がある重要性
水戸藩9代藩主徳川斉昭公の正室、登美宮吉子女王は宮家出身です。天保2年(1831年)降嫁の際に、京都御所紫宸殿左近の桜の種から育てた苗木鉢植え3本を仁孝天皇より賜りました。紫宸殿(南殿)左近の桜といえば、平安時代からの伝統ある天皇家の象徴的なヤマザクラです。このことから水戸徳川家と天皇家の距離が近かったことがわかります。当然水戸藩といえば、光圀公時代から特に尊王の心が強く、大日本史編纂事業、斉昭公時代の尊王攘夷思想が有名ですが、日本の歴史=天皇=左近の桜であるわけです。賜った3本の苗木は当初江戸の水戸徳川家小石川藩邸上屋敷の大名庭園後楽園に植えられましたが、天保12年(1841年)斉昭公による水戸弘道館落成にあたり、吉子女王の案でその左近の桜のひこばえから仕立てた苗木が正庁前に移植されました。※当初小石川藩邸後楽園に植えた際に、登美宮吉子女王はそのことを石碑に記しています。その石碑は現在水戸市の徳川ミュージアムに保存されています(非公開)
弘道館左近の桜は登美宮吉子女王の結婚を祝う記念樹ですが、尊王攘夷を掲げた水戸藩の弘道館に、尊王心の象徴でもある京都御所左近の桜の系統樹を植えるということは、とても大きな意味があったことでしょう。また、朝廷と幕府両方の血を引き継いでいるという意味で(京都御所と江戸の地に植えられた左近の桜)、弘道館左近の桜は徳川慶喜公(朝廷・吉子女王と幕府副将軍斉昭公の血をひくお方)そのものであるといえるのです。
偕楽園左近の桜は弘道館左近の桜と姉妹樹
現在の弘道館正庁前に咲く左近の桜は3代目です。初代は前途の通り、水戸藩上屋敷小石川藩邸後楽園に植えられた左近の桜です。そのひこばえが水戸弘道館正庁前に植えられた2代目。しかしこの2代目は戦後には枯れていました。昭和38年(1963年)、戦後の復旧改修工事完了を記念して、茨城県が宮内庁より、京都御所左近の桜の子孫樹(樹齢7年)苗木3本を受領し、弘道館の正庁前と偕楽園好文亭前の広場に植えられました。これが現在の3代目です。弘道館の3代目と同時期に偕楽園好文亭前に植えられた意味としては、斉昭公正室の吉子女王は一時期好文亭で過ごしており、吉子女王に寄り添う形での植樹と思われます。さらに深い意味としては、水戸桜川千本桜プロジェクト代表が発表した水戸「左近の桜・考」を参照してください。 つまり偕楽園左近の桜は、現在の弘道館左近の桜3代目と姉妹樹ということです。
偕楽園左近の桜については別記事を参照してください。
さらにこの左近の桜の重要性を知るためには、日本の桜史において最も歴史と威厳のある「京都御所紫宸殿前の左近の桜(南殿の桜)」いわゆる親木のことを知る必要があります。
京都御所紫宸殿前の左近の桜(南殿の桜)について
日本ではじめて1本の桜として記録に残るのが左近の桜です。
仁明天皇が在位した平安時代前期(834年~847年)、京都御所の中心で儀式を行う紫宸殿前の「右近の橘、左近の梅」の「梅」が「山桜」に改められました。
桜が好きだった仁明天皇が、梅が枯れてしまった際に山桜に代えたとされる説が有力だそうですが、その背景には「コノハナノサクヤヒメ・神道」や「吉野山の信仰」も関係があるといわれています。
また、この梅が桜に代えられた意味は、それまで大きく影響を受けていた中国文化を象徴する「梅」からの独立、日本独自の文化「山桜」の成立、つまり「国風文化の発展」という背景が、左近の桜誕生の核心だといわれています。
奈良時代の『万葉集』では桜の和歌は梅よりも少なく、また、桜については称賛というよりは、その風景自体を描写するだけの和歌が多いそうです。それが、平安時代の『古今和歌集』になると桜の和歌が圧倒的に多くなり、また桜を称賛、尊重する描写が増えているようです。
京都御所左近の桜は枯れては後継樹が植えられてきました。現在のものは平成10年に植え替えられたものです。
平成26年4月撮影
平安時代、源氏物語に描かれた樺桜(かばざくら)
一説に、古代には山桜のことを樺桜と呼んだそうです。白樺が語源という話もありますが、樺を「かにわ」と呼ぶと、古代の上溝桜の呼び方でもあったそうですし、山桜の樹皮を樺と言って、それを用いた樺細工というものもあります。まあ、これも所説あるのですが・・・省きます。また、白花茶芽が多い山桜で、開花時の山桜の葉芽の色でオレンジがかった茶色のことを樺色と呼びます。櫻川磯部の樺桜の葉芽が正にこの色です。
参考引用:桜川日本花の会
京都御所左近の桜の子孫樹である弘道館左近の桜もまさに樺桜の色合いといえるかもしれません。
平成26年4月撮影
ヤマザクラは開花時に葉芽が出ます。花の色形、葉芽の色、開花時期などが一本ずつ異なるのがヤマザクラの魅力であり、ソメイヨシノとの大きな違いでもあります。
平成26年4月撮影
存在感あふれる左近の桜。
平成29年4月撮影
写真提供:坂野しげ子(小美玉市)
左近の桜。右近の松。桜との組み合わせの最上級は松といわれています。
令和2年3月撮影
『水戸維新-近代日本はかくして創られた』(マイケル・ソントン・令和3年)掲載写真
姉妹樹である偕楽園左近の桜が令和元年9月の台風で倒木しました。
水戸の尊皇の心の象徴でもある左近の桜の重要性を改めて認識するとともに、後継樹の植樹が待たれます。
令和2年3月撮影
令和2年3月撮影
令和2年3月撮影
令和2年2月4日、水戸城大手門の復元が完成しました。城内から眺める弘道館の構図は、今注目の景観です。
令和2年3月撮影
令和2年3月撮影
令和元年9月撮影
令和元年9月撮影
講談『水戸左近桜譚』の感動的な初演!
令和3年3月撮影
【発為万朶桜】弘道館左近の桜!今、青天を衝き白雲のごとく咲き誇る!
水戸の桜花観「万朶の桜(ばんだのさくら)」を体現する「弘道館左近の桜」
水戸城から大手門をくぐり、いざ弘道館へ!
尊攘の書、弘道館絵図、文明夫人(吉子女王)の歌碑を含めた完全版。
西の都=京都御所=朝廷=吉子女王=左近の桜
東の都=水戸藩上屋敷小石川藩邸=江戸幕府=徳川斉昭公=左近の桜
朝廷と幕府の血を受け継ぐ徳川慶喜公=水戸左近の桜
「万朶の桜=日本人の正気の象徴、清らかな心」
「藤田東湖 正気の歌・現代語訳」(坂野秀司)
世の中に溢れる正しい気は、純粋清らかで日本に集まっている。
それは地を駆け巡り富士山となり、威厳をもって幾千年もそびえ立つ。
さらに流れては大海原の水となり、日本を巡る。
そして【たくさんの枝に咲き誇る満開の桜】となり
他の多くの花々とは比較にならないほど美しい。
この正気が集まって凝縮されると鍛え抜かれた日本刀となり、切れ味鋭く兜までも断つ。
日本の民は皆勇敢であり、武将は常に切磋琢磨している仲間、良き競争相手である。
日本に君臨されるは、どのようなお方かといえば、太古のときより万世一系の天皇である。
その御威光は全国に轟き、その素晴らしい徳は、太陽として天地人すべてを照らす。
いつの時代も盛衰があるが、日本が危機に瀕するとたちまち正しい気が光を放つ。
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