【水戸市】偕楽園左近の桜

平成24年4月撮影

茨城県水戸市 偕楽園

左近の桜

樹齢63年、樹高16m、幹周3.8m

※偕楽園左近の桜は令和元年に台風被害で倒木しました。

※令和5年3月16日、秋篠宮佳子内親王殿下が後継樹をお手植えされました。


偕楽園左近の桜を理解するには、弘道館左近の桜の経緯を知らなければなりません。

水戸藩9代藩主徳川斉昭公の正室、登美宮吉子女王は宮家出身です。天保2年(1831年)降嫁の際に、京都御所紫宸殿左近の桜の種から育てた苗木鉢植え3本を仁孝天皇より賜りました。

紫宸殿(南殿)左近の桜といえば、平安時代からの伝統ある天皇家の象徴的なヤマザクラです。

このことから水戸徳川家と天皇家の距離が近かったことがわかります。当然水戸藩といえば、光圀公時代から特に尊王の心が強く、大日本史編纂事業、斉昭公時代の尊王攘夷思想が有名ですが、日本の歴史=天皇=左近の桜であるわけです。


賜った3本の苗木は当初江戸の水戸徳川家小石川藩邸上屋敷の大名庭園後楽園に植えられましたが、天保12年(1841年)斉昭公による水戸弘道館落成にあたり、吉子女王の案でその左近の桜のひこばえから仕立てた苗木が正庁前に移植されました。

※当初小石川藩邸後楽園に植えた際に、登美宮吉子女王はそのことを石碑に記しています。その石碑は現在水戸市の徳川ミュージアムに保存されています(非公開)


弘道館左近の桜は登美宮吉子女王の結婚を祝う記念樹ですが、尊王攘夷を掲げた水戸藩の弘道館に、尊王心の象徴でもある京都御所左近の桜の系統樹を植えるということは、とても大きな意味があったことでしょう。また、朝廷と幕府両方の血を引き継いでいるという意味で(京都御所と江戸の地に植えられた左近の桜)、弘道館左近の桜は徳川慶喜公(朝廷・吉子女王と幕府副将軍斉昭公の血をひくお方)そのものであるといえるのです。


偕楽園左近の桜は弘道館左近の桜と姉妹樹

現在の弘道館正庁前に咲く左近の桜は3代目です。

初代は前途の通り、水戸藩上屋敷小石川藩邸後楽園に植えられた左近の桜です。

そのひこばえが水戸弘道館正庁前に植えられた2代目。

しかしこの2代目は戦後には枯れていました。

昭和38年(1963年)、戦後の復旧改修工事完了を記念して、茨城県が宮内庁より、京都御所左近の桜の子孫樹(樹齢7年)苗木3本を受領し、弘道館の正庁前と偕楽園好文亭前の広場に植えられました。これが現在の3代目です。


弘道館の3代目と同時期に偕楽園好文亭前に植えられた意味としては、斉昭公正室の吉子女王は一時期好文亭で過ごしており、吉子女王に寄り添う形での植樹と思われます。さらに深い意味としては、水戸桜川千本桜プロジェクト代表が発表した水戸「左近の桜・考」を参照してください。

つまり偕楽園左近の桜は、現在の弘道館左近の桜3代目と姉妹樹ということです。


さらにこの左近の桜の重要性を知るためには、日本の桜史において最も歴史と威厳のある「京都御所紫宸殿前の左近の桜(南殿の桜)」いわゆる親木のことを知る必要があります。


京都御所紫宸殿前の左近の桜(南殿の桜)について

日本ではじめて1本の桜として記録に残るのが左近の桜です。

仁明天皇が在位した平安時代前期(834年~847年)、京都御所の中心で儀式を行う紫宸殿前の「右近の橘、左近の梅」の「梅」が「山桜」に改められました。

桜が好きだった仁明天皇が、梅が枯れてしまった際に山桜に代えたとされる説が有力だそうですが、その背景には「コノハナノサクヤヒメ・神道」や「吉野山の信仰」も関係があるといわれています。

また、この梅が桜に代えられた意味は、それまで大きく影響を受けていた中国文化を象徴する「梅」からの独立、日本独自の文化「山桜」の成立、つまり「国風文化の発展」という背景が、左近の桜誕生の核心だといわれています。

奈良時代の『万葉集』では桜の和歌は梅よりも少なく、また、桜については称賛というよりは、その風景自体を描写するだけの和歌が多いそうです。それが、平安時代の『古今和歌集』になると桜の和歌が圧倒的に多くなり、また桜を称賛、尊重する描写が増えているようです。

京都御所左近の桜は枯れては後継樹が植えられてきました。現在のものは平成10年に植え替えられたものです。

平成24年4月撮影

ほのかににじむ薄紅色が写真からわかるでしょうか。木花之開耶姫命そのものであります。

左近の桜の花は究極美。赤芽白花、天下一のヤマザクラ。


茨城一本桜番付において「偕楽園左近の桜」を東の横綱としている理由

1000年以上の歴史がある、日本の象徴ともいえる天皇家左近の桜の系譜を、魁の街水戸が受け継いでいること。徳川光圀公が憧れた奈良吉野山のヤマザクラから常陸桜川、そして水戸桜川、徳川斉昭公による偕楽園桜山、桜野牧からの流れの到達点として藤田東湖「万朶の桜」そのものであり、この水戸発祥の桜花観は渋沢栄一に受け継がれ全国に広まりました。徳川斉昭公正室の吉子夫人の記念樹、皇室と水戸徳川家の関係性も重視しています。

その見事な枝ぶりと幹周り、花付きの良さ、白花赤芽(樺色芽)というシロヤマザクラの真骨頂。

平成25年には、日本樹木医会によって健康優良樹に指定。樹形と立地、ロケーションの良さ。代を継ぐ桜としての意味合い。そして知名度の高さという観点から、平成末期に咲き誇る茨城県の一本桜として最上級である、至高の桜であると考えました。

平成24年4月撮影

好文亭最上階 楽寿楼からの眺め。扇型に枝を伸ばす左近の桜と千波湖を望む風景。江戸時代にはここに桜はありませんでしたが、まるでこうなることを知っていたかのような完璧な景観に感動します。

平成24年4月撮影

平成24年4月撮影

好文亭楽寿楼、富士見窓と左近の桜。昔はこの窓の内側から西(写真と逆側)を眺めれば富士山が見えたようです。

平成24年4月撮影

平成24年4月撮影

平成24年4月撮影

平成26年4月撮影

朝陽が照らす至高のヤマザクラ。

平成28年4月撮影

平成28年4月撮影

平成28年4月撮影

平成29年4月撮影

平成29年4月撮影

夕陽の光が桜に透過する。

平成29年4月撮影


平成29年4月撮影

ライトアップされた左近の桜。

平成30年3月撮影

平成30年3月撮影

平成30年3月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成26年2月撮影

平成26年2月撮影

平成26年2月撮影

平成28年5月撮影

平成30年11月撮影

令和元年8月撮影

黄金比で眺める左近の桜、好文亭との調和性、美しさの極み

好文亭楽寿楼からの眺めも黄金比


令和元年9月9日撮影

偕楽園左近の桜、倒木

令和元年9月9日の台風15号の影響で、偕楽園左近の桜が根元から倒れました。悪夢を見ているようです。私にとって日本一の一本桜が偕楽園左近の桜です。9月9日夜、千本桜Pの稲葉先生から一報をいただき、いてもたってもいられず、21時ぐらいに見に行きました。偕楽園下の歩道橋からはライトアップされた桜が見えましたが、樹高があり倒れているようには見えませんでしたので、一部の大枝が折れて樹観が変わった程度で済んでいるのではと望みをかけました。

令和元年9月10日撮影

しかし翌朝9月10日の茨城新聞に掲載された倒木の記事を見て愕然としました。それでも信じることができず、朝方現地確認に行きましたが、根元から倒れていました。折れた根の部分は腐っているわけでもなく、むしろ健康であると感じました。左近の桜は樹齢63年という、比較的若いヤマザクラです。台風とはいえ簡単に倒れるとは思えません。今回の台風はそれほど強い風だったのでしょう。

※倒木後に樹木医等に診断を依頼したところ幹部の腐朽菌の繁殖が確認され、既存樹木の再生は『不可』との判断がされたそうです。


先日のブラタモリの放送内容は左近の桜の親木がある京都御所でした。左近の桜は、偕楽園を造成した徳川斉昭公の夫人吉子女王の降嫁記念樹であり、水戸の尊皇の心の象徴です。偕楽園左近の桜の姉妹樹である「弘道館左近の桜」を想いました。

令和元年9月10日撮影

令和元年9月10日撮影

近くで根元を確認しました。たくさんの葉を茂らせた状態だったので、まともに強風を受けてしまったのでしょう。

令和元年9月10日撮影

好文亭最上階の楽寿楼より。この景観を見る最後になりました。

令和元年9月10日撮影

萩まつり開催中で、外国人観光客の姿も。

令和元年9月10日撮影

令和元年9月10日撮影

令和元年9月15日撮影

伐採整理された左近の桜跡地。樹齢60年とはいえ、平成時代の名桜であったことは誰もが認めるところでしょう。歴史を継承した後継樹が植えられることを願っています。


10日に撮影した動画のツイートの反響が強かったです。 

閲覧数は10万を超え、動画再生数は2万6千回 、リツイート数(転載)は1225回 

この数は常磐百景のツイッターでは過去最高値であり、ここまで関心が寄せられる桜は茨城県に他にないと思います。やはり偕楽園左近の桜は圧倒的に横綱でした。  


令和2年2月に発表した「平成時代に咲き誇った名桜の集大成」である『茨城一本桜番付 平成春場所 彰往考来』では、偕楽園左近の桜を「東の横綱」としました。

偕楽園左近の桜、同地への後継樹植樹の重要性について、詳しくは水戸桜川千本桜プロジェクトの記事を参照してください。この内容は『水戸「左近の桜」考』として茨城県に提言されたものです。

令和元年11月2日撮影

1日から偕楽園が有料化(県民は無料)。左近の桜には跡地の案内板が建てられていました。


※いばキラTVより

復活、左近の桜!大井川知事の記者会見

2021年10月26日、大井川知事の記者会見で、令和元年の台風により倒木した「偕楽園左近の桜」の「復活」、「後継樹の植樹」について発表がありました。茨城県はすでに宮内庁から「京都御所左近の桜」の苗木をいただいており、後継樹としての植樹が決定しました。記者会見の資料に、私が撮影した写真を使っていただきました。撮影者クレジットまで入れていただき大変光栄です。 


私が制作している『茨城一本桜番付 平成春場所』では、最上位の「東の横綱」としてきた偕楽園左近の桜ですが、天皇家ゆかりの特別なヤマザクラというその歴史観や希少価値はもとより、幹周り、枝ぶり、花付き、赤芽と白花のバランス、周りの風景との調和性、存在感、知名度、人気度と、全ての項目で高い評価ができるものでした。 紛れもなく平成後期の茨城県を代表する名桜であり、全盛期の勇姿を記録として残したこと、情報を発信し続けてきたことは、大きな意義があったと感じています。 

※いばキラTVより

このような局面で、再植樹の議論に参加させてもらい、記念すべき発表の場で写真を提供できたことは、感慨無量であります。県知事が記者会見で発表するほど重要な桜、それが御所のヤマザクラ、左近の桜なのです。宮内庁経由で後継樹をいただけたことに感謝しつつ、好文亭前の同地に後継樹を植えることは、極めて当然のことだと理解しています。平成時代の記録として、茨城県内最上位「東の横綱」としたことは間違いではありませんでした。 


また、倒木した左近の桜は、実は保存されていて、今回の寄付者への木製の感謝状(左近の桜製)となるようで、これには驚きました。(100万円以上の寄付者先着20名まで) 


以上、茨城県の英断に敬意を表します。 ヤマザクラは日本人の心の象徴です。ましてや御所の桜となれば、正当なる株分け樹は京都府以外では水戸のみであり、それは藤田東湖先生が『正気の歌』で謳われた「万朶の桜(ばんだのさくら)」そのものであります。これら「水戸の桜花観(おうかかん)」を大事にされた渋沢栄一さんも、今回のニュースは当然のこととして聞かれていることでしょう。

水戸桜川千本桜プロジェクトとして100万円の寄付を行いました。左近の桜で作られた感謝状をいただきました。


令和4年6月撮影

左近の桜跡地が試掘されました。後継樹が植えられる日が楽しみです。

令和4年11月撮影

盛土されていました。山桜は紅葉がピーク、二季咲桜は秋の満開です。


令和5年3月16日(木)12:00 偕楽園見晴広場

偕楽園左近の桜植樹式典

左近の桜後継樹の植樹おめでとうございます。 

秋篠宮佳子内親王殿下がお手植えされました。歴史的な、大変貴重な場面に立ち会うことができました。 水戸桜川千本桜プロジェクト代表をはじめ、関係者の皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。自分が生きているうちに立ち会える出来事として、これ以上のことはおそらくもうないと思います。 

偕楽園左近の桜、京都御所紫宸殿左近の桜の正統なる苗木を秋篠宮佳子さまがお手植え

令和元年の台風倒木から3年半、最上の形で先代と同じ場所に後継樹の植樹が実現しました。倒木した日から近くで経過を見守ってきました。植樹すべきか否か、植樹するにしても場所は?様々な考え方がある中で、水戸桜川千本桜プロジェクト稲葉代表が発表した『水戸「左近の桜」考』(令和元年11月28日)。これら茨城県への繰り返しの提言をはじめ、新聞への寄稿や講演、講談『水戸左近桜譚』(令和3年2月26日)など、稲葉代表が歴史を明らかにして発信してきたことが、少なからず今回の植樹につながったという事実。もちろん、それはきっかけにすぎず、植樹を支持した多くの方々、寄付をした方々あってのことだと思います。ただ、事の経緯を隣で見聞きしてきた人間として、起きた事柄をしっかり語っていくのが私、常磐百景の役目だと思っています。

表現のしようがないほど美しく春麗な佳子さま。

サクラのイヤリング。

佳子さまと大井川知事による記念植樹。水戸五軒小学校生徒によるサポート。

水戸市長をはじめ来賓方々でお水やり。

たくさんの観衆。

令和5年3月16日撮影

樹形が美しい苗木が植樹されました。すでにその姿は至高です。

令和5年3月16日撮影


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