【水戸市】偕楽園左近の桜

平成24年4月撮影

茨城県水戸市 偕楽園

左近の桜

樹齢63年

樹高16m

幹周3.8m


※偕楽園左近の桜は令和元年に台風被害で倒木しました。後継樹の植樹が待たれます。


偕楽園左近の桜を理解するには、弘道館左近の桜の経緯を知らなければなりません。

水戸藩9代藩主徳川斉昭公の正室、登美宮吉子夫人は宮家出身です。天保2年(1831年)降嫁の際に、京都御所紫宸殿左近の桜の種から育てた苗木鉢植え3本を仁孝天皇より賜りました。

紫宸殿(南殿)左近の桜といえば、平安時代からの伝統ある天皇家の象徴的なヤマザクラです。

このことからは水戸徳川家と天皇家の距離が近かったことがわかります。


賜った3本の苗木は当初江戸の水戸徳川家小石川藩邸上屋敷に植えられましたが、天保12年(1841年)斉昭公による水戸弘道館落成にあたり、その左近の桜のひこばえが正庁前に移植されました。

(当初小石川藩邸後楽園に植えた際に、登美宮吉子夫人はそのことを石碑に記しています。その石碑は現在水戸市の徳川ミュージアムに保存されています(非公開))


つまり弘道館左近の桜は登美宮吉子夫人の結婚を祝う記念樹ですが、尊皇攘夷を掲げた水戸藩の弘道館に、尊皇心の象徴でもある京都御所左近の桜の系統樹を植えるということは、とても大きな政治的意味もあったことでしょう。

このことについて詳しく解説した記事があります。水戸桜川千本桜プロジェクトの記事をご覧ください。

偕楽園左近の桜は弘道館左近の桜と姉妹樹

現在の弘道館に咲く左近の桜は3代目です。

初代は前途の通り、水戸藩上屋敷小石川藩邸に植えられた左近の桜です。

そのひこばえが水戸弘道館正庁前に植えられた2代目。

しかしこの2代目は戦争等で枯れてしまいました。

昭和38年(1963年)、戦後の復旧改修工事完了を記念して、茨城県が宮内庁より、京都御所左近の桜の子孫樹(樹齢7年)苗木3本を受領し、弘道館の正庁前と偕楽園好文亭前の広場に植えられました。

これが現在の3代目です。


偕楽園好文亭前に植えられた意味としては、斉昭公正室の吉子夫人は一時期好文亭で過ごしており、吉子夫人に寄り添う形での植樹と思われます。またさらに深い意味としては、水戸桜川千本桜プロジェクト代表が発表した「左近の桜・考」を参照してください。

偕楽園左近の桜は、現在の弘道館左近の桜3代目と姉妹樹ということです。


さらにこの左近の桜の重要性を知るためには、日本の桜史において最も歴史と威厳のある「京都御所紫宸殿前の左近の桜(南殿の桜)」のことを知る必要があります。


京都御所紫宸殿前の左近の桜(南殿の桜)について

日本ではじめて1本の桜として記録に残るのが左近の桜です。

仁明天皇が在位した平安時代前期(834年~847年)、京都御所の中心で儀式を行う紫宸殿前の「右近の橘、左近の梅」の「梅」が「山桜」に改められました。

桜が好きだった仁明天皇が、梅が枯れてしまった際に山桜に代えたとされる説が有力だそうですが、その背景には「コノハナノサクヤヒメ・神道」や「吉野山の信仰」も関係があるといわれています。

また、この梅が桜に代えられた意味は、それまで大きく影響を受けていた中国文化を象徴する「梅」からの独立、日本独自の文化「山桜」の成立、つまり「国風文化の発展」という背景が、左近の桜誕生の核心だといわれています。

奈良時代の『万葉集』では桜の和歌は梅よりも少なく、また、桜については称賛というよりは、その風景自体を描写するだけの和歌が多いそうです。

それが、平安時代の『古今和歌集』になると桜の和歌が圧倒的に多くなり、また桜を称賛、尊重する描写が増えているようです。


茨城一本桜番付において「偕楽園左近の桜」を東の横綱としている理由

1000年以上の歴史がある、日本の象徴ともいえる天皇家左近の桜の系譜を、魁の街水戸が受け継いでいること。

徳川光圀公が憧れた奈良吉野山のヤマザクラから常陸桜川、そして水戸桜川、偕楽園桜山、桜野牧からの流れの到達点。

徳川斉昭公正室の吉子夫人の記念樹、皇室と水戸徳川家の関係性。

その見事な枝ぶりと幹周り、花付きの良さ、白花赤芽(樺色芽)というシロヤマザクラの真骨頂。

平成25年には、日本樹木医会によって健康優良樹に指定。

樹形と立地、ロケーションの良さ。代を継ぐ桜としての意味合い。

そして知名度の高さという観点から、平成末期に咲き誇る茨城県の一本桜として最上級である、至高の桜であると考えました。

平成24年4月撮影

好文亭最上階 楽寿楼からの眺め。

扇型に枝を伸ばす左近の桜と千波湖を望む風景。

江戸時代にはここに桜はありませんでしたが、まるでこうなることを知っていたかのような完璧な景観に感動します。

平成24年4月撮影

平成24年4月撮影

好文亭楽寿楼、富士見窓と左近の桜

昔はこの窓の内側から西(写真と逆側)を眺めれば富士山が見えたようです。

平成24年4月撮影

平成24年4月撮影

平成24年4月撮影

平成26年4月撮影

朝陽が照らす至高のヤマザクラ。

平成28年4月撮影

平成28年4月撮影

平成28年4月撮影

平成29年4月撮影

平成29年4月撮影

夕陽の光が桜に透過する。

平成29年4月撮影

平成29年4月撮影

ライトアップされた左近の桜。

平成30年3月撮影

平成30年3月撮影

平成30年3月撮影

平成30年3月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成31年4月撮影

平成26年2月撮影

平成26年2月撮影

平成26年2月撮影

平成28年5月撮影

平成30年11月撮影

令和元年8月撮影

令和元年9月9日撮影


偕楽園左近の桜、倒木

令和元年9月9日の台風15号の影響で、偕楽園左近の桜が根元から倒れました。 悪夢を見ているようです。私にとって日本一の一本桜が偕楽園左近の桜です。9月9日夜、千本桜Pの稲葉先生から一報をいただき、いてもたってもいられず、21時ぐらいに見に行きました。
偕楽園下の歩道橋からはライトアップされた桜が見えましたが、樹高があり倒れているようには見えませんでしたので、一部の大枝が折れて樹観が変わった程度で済んでいるのではと望みをかけました。

令和元年9月10日撮影

しかし翌朝9月10日の茨城新聞に掲載された倒木の記事を見て愕然としました。
それでも信じることができず、朝方現地確認に行きましたが、根元から倒れていました。折れた根の部分は腐っているわけでもなく、むしろ健康であると感じました。左近の桜は樹齢63年という、比較的若いヤマザクラです。台風とはいえ簡単に倒れるとは思えません。今回の台風はそれほど強い風だったのでしょう。

※倒木後に樹木医等に診断を依頼したところ幹部の腐朽菌の繁殖が確認され、既存樹木の再生は『不可』との判断がされたそうです。(追記)

先日のブラタモリの放送内容は左近の桜の親木がある京都御所でした。左近の桜は、偕楽園を造成した徳川斉昭公の夫人吉子女王の降嫁記念樹であり、水戸の尊皇の心の象徴です。偕楽園左近の桜の姉妹樹である「弘道館左近の桜」を想いました。

令和元年9月10日撮影

令和元年9月10日撮影

近くで根元を確認しました。たくさんの葉を茂らせた状態だったので、まともに強風を受けてしまったのでしょう。

令和元年9月10日撮影

好文亭最上階の楽寿楼より。この景観を見る最後になりました。

令和元年9月10日撮影

萩まつり開催中で、外国人観光客の姿も。

令和元年9月15日撮影

伐採整理された左近の桜跡地。

樹齢60年とはいえ、平成時代の名桜であったことは誰もが認めるところでしょう。

歴史を継承した後継樹(例えば姉妹樹である弘道館左近の桜から接ぎ木する等)が植えられることを願っています。

10日に撮影した動画のツイートの反響が強かったです。 

閲覧者数は9万を超え

動画再生数は2万5千回 

リツイート数(転載)は1244回 

この数は常磐百景のツイッターでは過去最高値であり、ここまで関心が寄せられる桜は茨城県に他にないと思います。
やはり偕楽園左近の桜は圧倒的に横綱でした。  


令和2年2月に発表する「平成時代に咲き誇った名桜の集大成」である『茨城一本桜番付 平成春場所 彰往考来』では、偕楽園左近の桜を「東の横綱」とする予定です。


偕楽園左近の桜の重要性について、詳しくは水戸桜川千本桜プロジェクトの記事を参照してください。

令和元年11月2日撮影

1日から偕楽園が有料化(県民は無料)

左近の桜には跡地の案内板が建てられていました。


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