【桜随筆026】昭和の茨城桜番付

 茨城県南から県西、そして県央県北と桜前線を追いかけて県全域の一本桜巡りを行った平成25年3月。那珂市の額田神社(鹿嶋八幡神社)で、県下最大級の幹周りを誇るヤマザクラに出会いました。樹齢600年。その迫力に圧倒されましたが、桜を囲う柵に貼ってあった『茨城桜見立番付』(昭和58年・川上千尋)になによりも驚きました。昭和五十八年と記載された茨城県内の一本桜番付。30年も前に茨城の桜を巡り、こうして記録に残した方がいる。ものすごいことです。番付は「やまざくら部門」と「しだれざくら部門」に分かれて、下段にはこの時点ですでに枯れてしまっている「昔日の名巨樹部門」、そして並木名所として「さくら群部門」も構成されてます。「名誉横綱」に茨城町大戸の桜(国指定天然記念物)、「行司」は学校校庭のソメイヨシノと神社仏閣境内のヒガンザクラという洒落をきかせた構成。額田神社の山桜は、やまざくら部門で西の横綱となっており、上部に「名誉引退」と記載されています。なるほど、確かに額田神社の山桜は横綱級の太さこそありますが、上部は枝が落とされていて幹には大きな空洞ができています。昭和58年の時点でも衰退は始まっていたのでしょう。これは当時の名桜を記録したものすごい資料だと思いました。番付最上位となる東の横綱はやまざくら部門では高萩市松岩寺の山桜(県指定天然記念物)。しだれざくら部門では龍ケ崎市般若院の枝垂れ桜(県指定天然記念物)。他にも私の知らない桜がたくさん載っていました。平成25年は結果的に100本近い一本桜をまわることになったのですが、わかってきたことは、この30年前の番付に記載されている桜の何本かはすでに倒木していることでした。寿命や病気によって枯れてしまったり、台風や大雪といった自然の猛威による倒木、そして管理上の都合による伐採など、倒木の理由は様々なようです。また、倒木していなくても主要な枝や幹が折れてしまっていて、樹観が変わり確実に寿命が近づいている桜もかなりの割合で含まれています。逆に私が知っている茨城の一本桜でこの番付に載っていない桜もたくさんありました。平成版の茨城桜番付を作りたい。茨城県の名桜古桜をまわって「平成の桜」として記録しなければ、また30年後にはなくなってしまう桜が何割かあるでしょう。今現在茨城県に咲き誇る名桜も、やがて朽ち果ててしまう時が来る。そうして人々の記憶から消えていってしまうのではないでしょうか。昭和の桜見立番付のようにその時点での名桜を記録することで、確かに存在していた桜、人々の思い出を未来へ残せる。実際に自分はこの昭和の番付から過去の名桜を知ることができたのですから。写真集や本の出版などは到底無理だけど、番付表1枚なら『いわき市内一本桜番付表』を作った自分にもできるのではないかと思いました。  

額田神社のヤマザクラ(那珂市)

人生を変えた出会いでした。柵にラミネートされた『茨城桜見立番付』(昭和58年・川上千尋)が貼られていました。

南指原のヤマザクラ(笠間市)

樹齢300年、樹高20m、幹周り7.7m。全国10位の太さを誇ったヤマザクラですが、平成23年に伐採。
写真は平成25年3月、たった2年遅かったのです。

向上庵のシダレザクラ(土浦市)

樹齢300年、県指定天然記念物で全国名木百選に選ばれている名桜。 平成23年9月21日の台風により根元から折れてしまったために伐採。天然記念物の指定は解除されました。 昭和の桜見立番付には西の大関として記載があります。
写真は平成25年3月。
 


 桜の倒木。これらはその儚さを体感したはじめての事例でした。自然の驚異ばかりはどうにもなりません。とにかく時間がないことがはっきりしました。平成時代があと何年続くかわかりませんが、平成の桜番付を作る上で、一本でも多くの桜を記録したい。川上千尋先生の昭和の桜番付に対して平成の桜番付をなんとしても完成させたいと考えました。


追記

  令和元年11月、川上千尋先生が旅立たれました。謹んでご冥福をお祈りいたします。川上千尋先生とは平成29年にお会いして、常陸太田一高でソメイヨシノのひこばえによる再生能力や巨樹の魅力についてご指導いただきました。また今年(令和元年)は川上千尋先生が初代代表を務めた「ひたち巨樹の会」に入会し、先生が残された様々な文献で学んでいたところでした。
令和元年11月30日に正式発表する最後の桜番付を、先生に届けられず残念でなりません。  

気を引き締めて桜の記録を未来に引き継ぎます。

茨城県の桜

常陸国一千三百年の桜史と平成の桜の記録 茨城一本桜番付 平成春場所の発表