【かすみがうら市】桜姫の山桜
令和4年4月撮影
写真提供:定松園・小松﨑定男さん(かすみがうら市)
茨城県かすみがうら市
※令和5年現在この桜は伐採されたためありません。
道端にあるヤマザクラの古木。ヤブツバキと絡まって成長しています。主幹は朽ち果ててひこばえが成長して再生している状態です。その枝もかなりの老木で、ヤブツバキの枝が支え木となって倒木を防いでいます。まるで、茨城町大戸の桜(国指定天然記念物)を彷彿とさせる樹観からは、相当な歴史を感じます。ヤブツバキもかなりの樹齢です。
この場所は令和2年3月1日に企画されていた講演会「茨城一本桜番付 西前頭筆頭下大津の桜」の会場である「かすみがうら市あじさい館」のすぐ近くで、また、お世話になっている小松﨑樹木医の定松園の近くでもありまして、講演を予定していた数週間前に偶然知ることになりました。こんなこともあるものですね。きっかけは茨城見聞録wataさんの「真珠院」のツイートで知ったわけですが、これも桜の引力がなせる業でしょうか。縁に感謝します。
令和2年2月撮影
2月16日、真珠院は見つけることができましたが、ヤマザクラが今も残っているのか、その場所もわからず、かすみがうら市立図書館で郷土資料を調べてみて見つけることができました。興奮が抑えられず、早速小松﨑樹木医を誘って現場調査です。講演会の宣伝に協力いただいた野口さんも一緒です。
令和2年2月撮影
ヤブツバキの枝がうまい具合に絡み合って支え木となっています。これはどんな風でも折れないような気がします。
令和2年2月撮影
しめ縄が張られており、大切にされていることが伺えました。
令和2年2月撮影
小松﨑樹木医と。桜が咲くまでツバキの花が持ってくれるかななどどお話しました。
このヤマザクラには1400年前、飛鳥時代の逸話があります。
複数の郷土資料に掲載されていましたので話をまとめてみます。
桜姫物語
その昔、仏教を世に広めた「聖徳太子」が亡くなると、「蘇我入鹿(そがのいるか)」が権力を奪おうと聖徳太子の子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」一族を滅ぼしてしまいました。その時に斑鳩の里(いかるがのさと)から難を逃れて逃げた一人の王子がいました。山背大兄王の子で名前を仮に「麿王(まろおう)」といいます。麿王は乳母を頼って東国に落ち延びました。麿王には桜姫(さくらひめ)という恋人がいましたが、別れる時に姫に「山の東、水の里に行く。」という言葉を残しました。
桜姫は麿王を恋しく思い、その言葉を頼りに侍女の「楓(かえで)」を連れて、麿王の後を追いました。旅慣れない女性の足で何日も何日も歩き続けました。いくつもの山を越え、川を渡って、遠く筑波山の麓を過ぎたところまで辿り着いた時に、疲れ果ててしまい、もう歩けなくなってしまいました。筑波山の東、霞ヶ浦の里であるこの地が麿王が言い残した場所に違いないと思ったのです。そこへ通りかかった老夫婦がなにやら訳がありそうな二人に「どうしました?泊る所がないのでしたら、私どもの家にどうぞ。」と声をかけてくれました。そして老夫婦はゆっくり休養していくように勧めてくれました。
親切な老夫婦と暮らすうちに、桜姫はこの広い国で麿王を探し出すことがどんなに難しいことかわかってきました。それならば東国のこの場所で麿王の無事と一族の冥福を祈って過ごそうと決めました。桜姫はこの地に小さな庵を建ててそこに暮らし、麿王の偉大なおじいさんである聖徳太子のお姿を思い浮かべながら、木像を一心に彫り始めました。毎日毎日身を清め心を込めて彫り続けました。
長い月日を経て、立派な木像「聖徳太子像」が完成しました。しかし桜姫は力を使い果たしてしまったのか、張り詰めていた気持ちが一気に緩んで、重い病の床についてしまいました。楓の看病も空しく、病気は一向に良くなりませんでした。
「私たちは足が弱いので、とうとう麿王様にお会いすることができませんでした。もし、私達と同じように人を訪ねて旅をする人がいたら、丈夫な足でどこまでも歩いていけるように願いを込めて、聖徳太子様の足元へ「お足(お銭)」を入れておいてください。」と言い残して桜姫は亡くなってしました。侍女の楓も姫に先立たれて、生きる望みを失ってしまったのか、姫の後を追うように亡くなりました。
村人たちは二人を哀れみ、丁寧に弔いました。二人にちなみ山桜の木と楓の木を植えてお墓を造り、お堂はそのままお寺にしました。そのお寺は二人の真珠のような清らかで美しかった人柄を偲んで、「真珠院」と名付けられました。今でも真珠院のご本尊である聖徳太子像の足元には「お足(お銭)」が挿まれています。足がいつまでも丈夫であるようにと祈る人々がお参りにやってくるのです。
現在のかすみがうら市深谷の栖形には、二人のお墓が残されており、昔から桜の木と楓の木が揃ってありました。桜は見事な大木となって残ってはいるものの、楓は枯れてしまい、今では藪椿(ヤブツバキ)が桜に寄り添って茂っています。
参考文献:
『ふるさとの伝説』(霞ヶ浦町教育委員会・平成16年)
『出島村の昔ばなし』(塙義郷・昭和56年)
『出島村史(続編)』(出島村教育委員会・昭和46年)
令和2年4月撮影
ヤマザクラの元には3つの社があります。小松﨑樹木医がこのヤマザクラ所有者様に土地立ち入りと写真撮影の承諾をとってくださいました。改めて感謝申し上げます。
令和2年4月撮影
可憐な花を咲かせてくれました。
令和2年4月撮影
令和2年4月撮影
黄色い葉芽です。
令和2年4月撮影
令和2年4月撮影
現在も残る真珠院。茅葺屋根だった頃の写真が郷土誌に残っています。
令和3年3月撮影
※新型コロナウイルスの感染予防の観点から令和2年の講演会は中止となりました。しかし、桜姫のヤマザクラは見事な花を咲かせてくれました。これら郷土の宝、大切に語り継いでいきたいです。
令和4年2月撮影
令和4年3月撮影
写真提供:定松園小松﨑定男さん(かすみがうら市)
太枝が折れてしまったヤマザクラ。ツバキが見事です。
令和3年4月撮影
わずかに薄紅色が出ている花。高貴な桜姫にぴったりのイメージです。
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