茨城一本桜番付


茨城一本番付 平成春場所 彰往考来

天下御免!

平成24年から平成31年4月30日までの取材撮影分をまとめた、茨城県の平成時代に咲き誇った名桜を総括する桜番付の決定版『茨城一本桜番付 平成春場所 彰往考来』

一本桜という観桜。平成時代に茨城県ではこんなにも素晴らしい桜が受け継がれ、守られ、絢爛豪華に咲いていました。全ての茨城人に手にとっていただきたい、未来に残すべき記録です。令和の春を前にして、桜の見栄えや歴史を踏まえて厳選しました。


-------《文字番付》-------

東西各150本、名誉横綱、行司を合わせた圧巻の計303本掲載。水戸桜川千本桜プロジェクトで学んでいる桜の歴史を踏まえて、常陸国1300年の桜史が辿りついた平成の名桜を、大相撲番付になぞらえて構成しました。下段には桜並木、群桜名所、遠山桜、伝説の名桜を多数掲載。平成の桜一覧の決定版です。


-------《文字番付裏面》-------

大正昭和の名桜一覧、茨城県にゆかりのある全国の名桜一覧、常陸国1300年の桜史年表、参考文献一覧など情報もり沢山で構成した番付の裏面。日本の桜史が浮かび上がります。

 

-------《写真番付》-------

常磐百景代表坂野が平成24年からの8年間力を入れて撮影してきた名桜写真、そして様々な協力者からの写真提供を受けて、文字番付十両以上の一本桜カラー写真を並べて構成したいわば絵番付です。


-------《写真番付裏面》-------

上記写真番付と同じ一本桜を、平成最後の冬である平成30年12月〜平成31年3月に、まったく同じ構図で撮影したモノクロ写真で構成する『平成冬場所』。冬枯れの姿は枝が際立ち、華やかな春場所と対比して見ることで、わずかこの数年間でも桜が衰退していることが比較できます。


茨城一本桜番付 平成春場所 彰往考来 発表について

 

 桜を大相撲番付に準えて掲載する桜番付というものは、日本人の趣向に合うようで、古くは江戸時代からありました。今から約百年前の大正八年東京朝日新聞に掲載された『全國大櫻番附』(浅田澱橋)はその代表的な例といえます。幹周り一丈(約三㍍)以上の桜の巨木百本が厳選されたその番付には、茨城県の名桜が八本も掲載されています。大正末期から昭和初期にかけて茨城県の巨木を調査して記録した『茨城縣巨樹老木誌・上下巻』(関右馬允・昭和十一年、十五年)には大変貴重な当時の写真が多数収録されています。そしてそれらの桜を名誉横綱、昔日の名巨樹として据えながら、昭和末期に全盛を誇った桜を調査して番付表にした『茨城桜見立番付』(川上千尋・昭和五八年)は、未来に残すべき貴重な資料といえるでしょう。このような各時代を彩る桜の記録から、常陸国一千三百年の時代と人々が繋いできた桜史、そして近代の桜風景を垣間見ることができるのです。


 彰往考来(しょうおうこうらい・過去をあきらかにして未来を考える)の精神を骨子としている水戸桜川千本桜プロジェクトは、歴史を継承した植樹活動を行っている団体です。代表の稲葉先生から日々ご教示いただいている茨城県と日本の桜史からは、それまで私の中で点と点だった桜が確実な線で繋がっていく様を見せられており、茨城県の桜には誇るべき伝承と継承があることを知りました。


 『櫻』(三好学・昭和十三年)や『櫻史』(山田孝雄・昭和十六年)などの有名な文献においても、茨城県の桜とそれらを継承してきた偉人の存在感は別格です。奈良時代『常陸国風土記』の筑波山の花見にはじまり、平安時代の常陸桜川から江戸時代の水戸桜川への流れ、八幡太郎義家公や親鸞の伝承、そして光圀公、斉昭公の桜愛、藤田東湖万朶の桜からの明治、大正、昭和時代に至るまで、ここに挙げればきりがないほど、茨城県の桜は全国に影響力をもつ壮大な歴史で繋がっているのです。川上千尋先生が発表した『茨城桜見立番付』は昭和時代の集大成ともいえるものです。私はその平成版、つまり平成時代の集大成として桜番付を引き継ぎ、記録として残したい。その一心で平成二十四年から茨城県内の名桜古桜を訪ね歩き、取材撮影を重ねてまいりました。


 これまでの各文献は、樹齢や幹周り、樹高や品種、天然記念物指定といった学術面での希少価値を基準に構成されているものがほとんどです。しかし平成版の桜番付では、それらの基準も踏襲しながらさらに、知名度や周りの風景との調和性や存在感などを踏まえ、現代的な要素としての写真映えも意識しました。そしてなによりも、その桜が存在する理由、桜に秘められた歴史や伝承、桜を植えた人々の想い、慈しみの心と桜守の存在を大切にし、誇るべき桜史の一場面が浮かび上がってくるような構成を目指しました。制作にあたり桜所有者様はもちろんのこと、審判委員のお二方、資料提供や番付を宣伝告知いただいた方々に改めて感謝お礼申し上げます。平成二十九年秋には昭和番付選者の川上千尋先生にお会いしました。先生は直接桜の古木の素晴らしさを説いてくださり、一本桜番付の平成版にお墨付きを頂きました。今回発表させていただく桜番付は、大正時代の関右馬允先生から続く、茨城県の桜の記録としての継承、ひとつの到達点であると自負しております。多くの方々がこの『茨城一本桜番付 平成春場所』を手に取ってくださり、平成時代の桜の素晴らしさを未来へ語り継いでいただけたら嬉しいです。


平成三十一年四月三十日・常磐百景 代表
水戸桜川千本桜プロジェクト、水戸桜川日本花の会 幹事
茨城県小美玉市 坂野秀司


※茨城一本桜番付のコピー、プリント、配布は【完全無料です】
※第三者による二次的な配布であっても有料での配布には承諾してません。配布していただける場合は、コピー代などいかなる理由でも完全無料でお願いします。




発表予定!
茨城一本桜番付 平成令和春場所 継往開来

茨城県内1300ヶ所の名桜集大成。

これが常磐百景として最後の桜番付発表となりますが、発表時期は未定です。

東西各330本、計660本。

行司1、名誉横綱2を加えて663本の一本桜番付となります。

前回発表した「平成春場所 彰往考来(303本)」の倍以上の構成となり、極めつけでございます。

【行司】1

【名誉横綱】2

【横綱】2

【大関】4

【関脇】6

【小結】16

【前頭】40

【十両】26

【幕下】84

【三段目】80

【序二段】80

【序の口】162

【前相撲】162


茨城県名桜型録(カタログ)

天下御免!茨城県の桜を知らずして日本の桜を語ることなかれ

民間人によるお花見について、日本最古の記録は筑波山の花見『常陸国風土記』(奈良時代721年)といわれています。飛鳥時代あたりから行われていたと推測されています。つまりお花見の発祥地が筑波山といっても過言ではありません。常陸国(ひたちのくに)は栄養豊富な土壌と温暖な気候で、ヤマザクラとカスミザクラの分布に適した環境だったことが明らかで、筑波山を南端にする八溝山地・筑波山塊のヤマザクラの群生を観ればそのことが実感できます。ヤマザクラは稲作の暦(こよみ)、神が宿る依代(よりしろ)として神聖視されてきました。筑波山では古くからこのヤマザクラのもとでお花見・嬥歌(かがい)・歌垣(うたがき)が行われていたのです。平安時代、紀貫之(きのつらゆき)はこのあたり「筑波山塊」のヤマザクラの花びらが川面に散り、支流から本流へと集まり流れていく花筏(はないかだ)の風情を「さくら川」と和歌に詠みました。


つねよりも春へになれはさくら川 なみの花こそまなくよすらめ  『後撰和歌集』(紀貫之)


奈良吉野山に次いで1000年の歴史を持つ東日本最古の桜名所「磯部桜川」はそういった山々に咲く名桜の人工的な集積地で、鎌倉時代には「西の吉野、東の桜川」といわれたほどです。万葉集に多数登場する筑波山と同様、都からは歌枕の地として認識されてきました。室町時代には世阿弥(ぜあみ)が制作した謡曲『桜川』によってその威厳は確固たるものとなり、後にお茶の世界にも桜川が発展していきます。


筑波山、このもかのもの花盛り、このもかのもの花盛り、雲の林の蔭茂き、緑の空もうつろふや松の

葉色も春めきて、嵐も浮かむ花の波、桜川にも着きにけり、桜川にも着きにけり  謡曲『櫻川』(世阿弥)


また、筑波山に訪れた宗祇(そうぎ)によって連歌にも詠まれました

筑波ねのみねより花にあけそめて 桜川かといろになかるる  『名所千句』(宗祇)


隅田川や飛鳥山、小金井など江戸の桜名所造成の際に、桜川から苗木が献上されたことからも、奈良吉野山同様の威厳と受け継がれてきた花の文化を感じることができます。西の富士、東の筑波。西の吉野、東の桜川。広大な関東平野に突き出た形で山々が続く「筑波山塊」。そして北部の鶏足山塊との間の盆地に「桜川」の核心地である櫻川磯部稲村神社が鎮座しています。磯部桜川という名勝地は神社の参道一帯のことです。こういった背景からも、筑波桜川のヤマザクラが古くは奈良時代、もしくはそれ以前から有名だったことは想像に難くありません。紀貫之が和歌に詠んだ桜川の出現も必然で、その原点はこの地域に連なる八溝山地・筑波山塊・鶏足山塊に咲き誇ってきた天然のヤマザクラ群にあるといえるでしょう。

土壌が豊かで温暖な気候、農作物が良く育ち、魚介が豊かな霞ヶ浦と川がある。常陸国が「常世の国」と言われてきたのも頷けます。筑波山塊は低山なので人が関わりやすく、里山として常緑樹が伐採され落葉樹が山を覆うということが数百年単位で繰り返されてきたのではないでしょうか。また、古くから神の山、霊山だった筑波山の南面や、常緑樹が少ないと言われてきた難台山のような例、そして昭和中期に枯れてしまったアカマツ林など、ヤマザクラ群の出現理由は必ずしも人が手を入れた山だからというだけではないはずです。これらヤマザクラ、カスミザクラは開花と同時に赤、茶、黄土色、萌黄色、黄色、黄緑、緑の葉芽が出ます。ソメイヨシノやシダレザクラ(エドヒガンザクラ)は開花時に葉芽は出ません。日本全国に植えられた桜の8割がソメイヨシノと言われる現代では、葉芽が出ていると葉桜と勘違いされるケースが後を絶ちませんが、ヤマザクラを鑑賞する際はこの葉芽の風情を大事にしたいです。ヤマザクラは実生、つまり種から育つため1本ずつ遺伝子が異なります。それにより開花時期や花、葉芽の色形状が違うということが魅力のひとつです。山々を彩る赤い木々は、ヤマザクラの花が散り、赤芽の葉が展開している風景です。他の常緑樹や新緑、早咲き、遅咲き、赤芽黄芽も交じり合い、まさに春の錦絵のごとく「錦繍(きんしゅう)」という風景が成立しています。山の麓や里から遠景で愛でることを「遠山桜」(とおやまのさくら)といいますが、筑波山塊、鶏足山塊付近の農道はいたるところでこの遠山桜の視点場となっており、春のドライブをおすすめします。


明治時代初期までは、今のような桜並木や群桜名所はほとんど存在していませんでした。江戸時代まででいうと、県内では桜川、雨引山をはじめ、瑞龍山旌桜寺、静神社、鹿島神宮の桜山、そして水戸二代藩主徳川光圀公が桜川からヤマザクラ、カスミザクラを移植して造成した水戸桜川や、九代藩主徳川斉昭公が造成した偕楽園桜山、桜ノ牧といった名所がありました。しかしこれらはとても先鋭的で特別なものでした。現代の桜並木や群桜名所は、そのほとんどが戦後に植えられたものですが、ソメイヨシノについては、明治以降の全体主義・国民国家化や戦勝記念、戦没者慰霊と密接に関わっているものも少なくありません。欧米列強と肩を並べる国となるべく、クローンのソメイヨシノが象徴的に全国に広まっていきました。ソメイヨシノの学名Cerasus × yedoensis (Matsum.)命名者は茨城県高萩出身の松村任三(帝国大学理科大学教授・牧野富太郎の上役・小石川植物園初代園長)で、桜を語る上で茨城県を代表する偉人のひとりです。


昔のお花見は一本桜が主流です。桜川の例と同じく名桜は献木(けんぼく)や下賜(かし)といった形で威光ある苗木が移植され、寺社や庭園に広まっていきました。枯れると2代目が植えられ系譜が受け継がれてきたのです。シダレザクラ(彼岸桜)は仏教寺院の奇瑞の花として、ヤマザクラは神社神道のご神木として崇められてきました。ソメイヨシノ登場以前、こういった植え分けの歴史があるのも気候が温暖な茨城県の特徴です。例えば1000本もの一本桜が残っている長野県や福島県では、信濃桜や滝桜のような名桜が分布に影響していたとも言えますが、寒い地域でヤマザクラは生きられないため、現存する古木のほとんどはエドヒガンザクラです。しかし茨城県では推定樹齢数百年のヤマザクラ、エドヒガンザクラ(シダレザクラ)が寺社を中心に実に多く点在しています。徳川光圀公や、源義家公、親鸞などがお手植えした伝承が残っている名桜も少なくありません。(園芸品種が簡単に手に入る現代は多様な品種が植えられています)

茨城県の一本桜の極め付きは「弘道館左近の桜」と「偕楽園左近の桜」です。尊王の心を大切にしてきた水戸徳川家だからこそ、天皇から京都御所左近の桜の苗木を賜ったのであり、正統な後継樹が現代に受け継がれ至高の名桜となっている事実は見逃せません。京都の外に正当な後継樹が出た例は他にないのです。


天さかる ひなにはあれと 桜花 雲の上まて 咲き匂はなん  「妙霞台の桜歌碑」(徳川吉子)


偕楽園左近の桜は令和元年の台風で倒木しましたが令和5年3月に秋篠宮佳子内親王殿下により後継樹がお手植えされました。こうした名桜を背景に、幕末 全国の尊王の志士が朗誦した藤田東湖の『正気歌』で万朶桜(ばんだのさくら)と歌われた水戸発祥の桜花観(おうかかん・さくらばなのみかた)は、渋沢栄一に受け継がれ、近代日本をつくってきた全国の有志に大きな影響を与えてきました。万朶桜=満開の桜=日本人の正気の象徴=日本人の心という桜花観(おうかかん)は本居宣長の和歌「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と同列に語られることが多かったのです。


天地正大(てんちせいだい)の氣(き) 粹然(すいぜん)として神州(しんしゅう)に鐘(あつま)る

秀(ひい)でては不二(ふじ)の嶽(がく)となり 巍々(ぎぎ)として千秋(せんしゅう)に聳(そび)ゆ

注(そそ)いでは大瀛(たいえい)の水(みず)となり 洋々(ようよう)として八州(はっしゅう)を環(めぐ)る

發(はっ)しては萬朶(ばんだ)の櫻(さくら)となり 衆芳(しゅうほう)與(とも)に儔(たぐ)ひし難(がた)し

凝(こ)っては百錬(ひゃくれん)の鐡(てつ)となり 鋭利(えいり)兜(かぶと)を断つ

『正気歌』※前半部分の抜粋(藤田東湖・江戸時代末期)


記録の歴史についても茨城県は特別です。水戸彰考館で最後の総裁を務めた青山延光の著作『櫻史新編』(明治13年)は、かの有名な『櫻史』(山田孝雄・昭和16年)の中で「この書は、花神、名区、名花、雑記の四門に分ちて、上代より近世に及び、凡そ事の櫻花に関するものを網羅して録せるものなり、これ実に本邦に櫻史あるはじめ」と評され、近代に入り知名度が落ちていた桜川の存在を全国に知らしめた『櫻川事績考』(石倉重継・明治28年)など数々の書籍で引用されてきました。その『櫻川事蹟考』によって、明治45年、桜博士の三好学が磯部桜川を視察、後の名勝地指定につながります。三好は他にも雨引山、水戸桜川、茨城町大戸の桜に調査訪問しました。『櫻に関する図書解題略』(三好学・大正9年)では全国7名所として「1吉野 2桜川・雨引山、3嵐山・嵯峨、4隅田川、5上野、6小金井、7荒川堤」を挙げています。『櫻花図譜』(三好学・大正10年)に桜川のヤマザクラ11品種の絵図が掲載、これが後の天然記念物指定につながります。さらに『櫻』(三好学・昭和13年)でも桜川を絶賛しました。


常陸の櫻川は小金井や吉野に匹敵すべき立派な櫻の名所で殊に其来歴の古いことでは吉野に次ぐものであります。櫻川は地域が狭く、櫻川には磯部神社があり、木花開耶姫を祀ってある。其前に数町の馬場と広場とがあり、馬場の両側には櫻が植えられ広場には殊に大木がある。此處の櫻は白山櫻であるが、吉野山のそれとは系統が違い、関東地方の良い品種、東北地方の天然品種を集めたもので、花が淡紅色を帯びたもの、花梗に毛があるもの花に芳香を有するものが多い。是等は同所の櫻をして、吉野山の櫻に対して特徴を帯びているゆえんである。明治四十五年四月十一日、自分が石倉翠葉氏の案内によってはじめて此處に行った時は閑静な勝区で立派な白山櫻の大樹があった。又櫻川から遠くない雨引山(観音の霊場)へも行ったが、ここにも美しい白山櫻があった。櫻川は石倉氏の常時と違って今日では多数の人が花見に来る又老樹も次第に枯れる。其上に染井吉野を植えて古い櫻の名所を俗了したのは遺憾である。将来櫻の名所として櫻川は其美しい白山櫻の絶えないように努めなければならぬ。  『櫻』(三好学・1938年)


大正8年に東京朝日新聞に掲載された『全國大櫻番附』(浅田澱橋)で、全国の巨桜100本が厳選されましたが、茨城県からは8本、さらにその内2本が磯部桜川から選ばれています。この割合からは復活した桜川の威厳が感じられます。日立の関右馬允(せきうまのじょう)が衰退する巨樹を予見し、大正時代末期から昭和初期に県内の巨樹老木数百本(内桜樹は30本)を撮影して収録した『茨城縣巨樹老木誌 上・下巻』(昭和11年・15年)は、他に類をみない傑作です。林学博士の本多静六が監修、題字に牧野富太郎と三好学ですから、関の活動がいかにすごいことだったのかがわかります。関の書籍に感銘を受けた川上千尋は、『茨城桜見立番付』(昭和58年)を発表。これは昭和後期の茨城県の桜風景が想像できる貴重な記録のひとつです。桜番付選定に協力し、国内の名桜の衰退を危惧して記録に走った元祖桜写真家「藤井正夫」(水戸市常磐町在住)も偉大なる記録者のひとりです。川上が代表となり発足した「ひたち巨樹の会」は、全国に先駆けて巨樹の愛好保存を訴える団体となり、令和7年に設立40周年を迎えます。


保存活動の面では、平成17年に桜川で「サクラサク里プロジェクト」が発足し、歴史ある桜川の保存と宣伝活動を開始しました。その思いは「桜川日本花の会」「(一社)櫻川保勝会」へとつながり、衰退していく名桜をなんとかしようと地道に活動されています。「水戸桜川日本花の会(水戸桜川千本桜プロジェクト)」では、歴史を重視した植え継ぎと保存活動を実施。同時に県内の桜史を明らかにし都度発表しています。そしてこれらの活動には、より専門的な現場職人である「(一社)いばらき樹木医会」が連携し、さらに「桜川市ヤマザクラ課」「日立市さくら課」との協力関係が生まれています。他にも県内では「下大津の桜保存会」に代表されるような地域の桜守による保存活動も増えてきました。貴重な八重桜をはじめ300品種以上が咲く日本花の会公式の結城農場桜見本園や、つくば市の森林総合研究所の存在も自慢のひとつでしょう。現在桜川や水戸、日立の桜の保存活動には、日本花の会の和田先生や森林総合研究所の勝木先生という桜の第一人者が関わってくださっています。まさに茨城県の桜史は今も激動の最前線を歩んでいるのです。


かつては全国にその名を轟かせていた茨城県の桜。実は現在もしかるべく人たちによって静かに支え受け継がれています。『茨城県名桜型録(カタログ)』は、桜の表面的な見栄えだけでなく、前述した系譜の重み、歴史観といった内面的な要素、そして各地の保存団体や愛好家のみなさまの思いも鑑みて、撮影済1500ヶ所の中から厳選して構成しました。全国的にみても茨城県の古木の現存率の高さは群を抜いており、このような県はそうそうありません。他県には真似できない次元で桜を語れるのが茨城県なのです。常陸国1300年の桜史がたどりついた現代の桜風景ここに極まれり。この型録が県民のみなさまの誇りを育む一助となり、みなさまの桜に対する概念を変えるような資料となることを願っています。

令和6年12月 常磐百景PROJECT 坂野秀司


偕楽園桜型録(カタログ)

梅桜一対の景観構成。偕楽園は古くは吉野山の山桜を移植した地であり、園内を流れる川には徳川光圀公が常陸桜川の山桜を移植して桜川とした歴史があります。梅だけ捉えていたのでは全体の30%ほどしか魅力が伝わりません。対面の桜山、丸山、その先の茶園、田園と桜川、そして千波湖。左近の桜、二季咲桜にも歴史があります。


『茨城県桜川市さくらめぐりMAP』(A2版カラー)

企画・編集 石島奈奈 写真提供・協力 常磐百景

※下記リンク先からPDF版がダウンロードできます。



写真集

茨城県の染井吉野

発行 常磐百景PROJECT

※発行日未定


水戸左近の桜

発行 常磐百景PROJECT

※限定本


茨城の一本桜 平成茨城 名桜の記録

発行 水戸桜川千本桜プロジェクト

※限定本


マナーを守りましょう。

柵の中に立ち入らない。桜の枝に触れないなど、観桜マナーを守りましょう。

個人所有地であれば無断で立ち入らず承諾を得るなどしてください。

カメラマンが偉いわけではありません。桜所有者様へはもちろんのこと、他の観桜客にも気遣いができる品格ある観桜をお願いします。